⑧ 京大熊野寮の思い出

 1965年4月13日に建寮された熊野寮が間もなく50周年を迎えるということで、記念誌が企画され、寄稿の要請に答えて書いた文章がこれである。記念誌は「熊野寮50周年記念誌」(上・下)というタイトルで204年11月29日に発行された。私の文章は上巻の108ページに掲載され、サブタイトルは「全ては熊野寮から始まった」となっている。


 

1 私が熊野寮に入寮したのは、1968年4月です。その年の4月に京都大学文学部に入学したので、最初から熊野寮に入ったことになります。

  寮を希望したのは、当時の多くの学生がそうであったように、家が貧困でアパートなど借りる余裕がなかったからです。授業料を免除してもらい、奨学金を貰って、アルバイトをしながらの学生生活で、寮費が安い、食事も寮でとれば安いというのは魅力でした。

  当時、入寮を希望する学生の数に比して、京大の寮施設は十分ではなく、増寮がずっと課題でした。入れるかどうか一抹の不安はありましたが、面接をへて、無事入寮できました。選考が大学当局によってではなく、寮生自身によってなされていたのは驚きでした。

  最初に入った部屋は、B棟の204号室でした(と思います)。4人部屋で、新入生は私だけで、あとの3人はいずれも上級生で、1人は文学部の坂本さんという人でした。坂本さんには、同学部ということもあり、いろいろと教えて貰い、お世話になりました。坂本さんの趣味が渓流釣りで、私も釣りが好きだったことから、一緒に連れて行ってもらったこともあります。

 

2 寮の運営は、新入寮生の選考だけでなく、全てが寮生によって行われていました。当時の寮自治会の委員長が黒田(末寿)さんで、その後岡田さん、橋本(直次郎)さん、星野、倉重と引き継がれます。(星野以下が呼び捨てになっているのは、同期だからです。失礼)熊野寮の自治会は、いわゆる反代々木系の「闘う自治会」であり、寮闘争を担う他、反戦、反安保闘争など政治闘争にもかかわっていました。しかし、当時を振り返って面白いと思うのは、寮自治会は、そのような諸闘争への参加を寮生に強要するわけではなく、参加できる人は参加してください程度のゆるやかなものであり、闘争以外の様々な行事、企画も行われていたことです。京大の女子寮に夜中押しかけ、水をかけられたり、奈良女の寮に夜通し歩いて行って、歓迎されるどころか無視される(?)とかは一例で、新入寮生は何も知らないで、期待に胸ふくらませて参加すると、結果はこうだったということです。おそらく、これらは当時行われていた伝統的な行事で、先輩方は全部わかっていた上で、新入寮生をつれていったのでしょう。その他に私が参加したものとして、女子大との合ハイとか、寮での社交ダンスの講習会をへて、ダンパの開催などがあります。合ハイでは、それを企画し、実行したリーダー同士がその後付き合いだし、一緒になってしまったということもありました。

 

3 私は、入寮して間もなく、寮自治会、寮闘争への関わりを持ち出しましたが、入寮した翌年の1969年1月の寮団交では議長団の一員を務めることにもなりました。この団交は、この年の京大闘争の発端ともなったもので、寮のかかげる三項目要求(無条件増寮、20ヵ年長期整備計画白紙撤回、経理全面公開)をめぐって、岡本道雄学生部長や奥田東総長を相手に、1月14日の夕方から16日の未明まで延々と続けられ、結局決裂し、その直後寮生は学生部建物をバリケードで封鎖し、占拠することになります。前年度の東大、日大に始まった大学闘争は、この年の1月の京大を始めとし、全国の大学(及び高校)に燎原の火の如く広がるのですが、それぞれの大学で発端となった問題は異なり(例えば東大では医学部問題)、京大は寮問題であったということです。私は、当時まだ一回生でしたが、何名かの議長団の1人になり、伊藤公一さん(団交決裂後結成された寮闘争委員会の委員長)とペアを組んで、団交を推し進め、決裂時も議長役をしていました。この時の議長団の1人に吉田寮の若狭さん(後に高城修三のペンネームで芥川賞を受賞)がいたことも覚えています。

 

4 寮闘争として始まった京大闘争は、その後1月末の教養部の無期限バリケードストライキを始めとして全学化していくことになりますが、私は、教養部のバリケードの中と熊野寮を行き来する生活をすることになります。この当時の寮生活で、印象的だったことをいくつか記します。

 

(1)寮食

 当時熊野寮に食堂はあったものの、大学当局と経済的負担問題で話がついておらず、寮で炊婦さんを雇って、食堂を自主運営していました。寮生は事前に申し込んでおけば、食事を食堂でとることができ、栄養カロリーまで計算されたそれなりにおいしい食事を安く食べれました。(一食いくらであったかは覚えていませんが)ただ、困ったのは、時間内に食べれない時は「残置」と言って、とっておいてもらうのですが、これがしばしば誰かに食べられてしまうことが多かったことです。この場合、しかたなく、熊野寮の前にあった古い食堂へ行ったのですが、この食堂は、おじいさんとおばあさんの2人でやっていることから、私たちは親しみを込めて、「ジジババ食堂」と呼んでいました。玉子丼とうどんの両方を食べても200円でお釣がくるという安い食堂で、当時のお金のない私たち貧乏寮生にとっては寮食とジジババ食堂の存在は大助かりでした。

 

(2)風呂

 お風呂も設備としては熊野寮にあったのですが、水熱費の負担について大学当局と話しがつかなかったため、寮生は利用することができませんでした。そこで、寮としては寮生の便宜を図り、熊野寮の前にあった銭湯の割り引き券を希望者に渡していました。ところが、私の記憶として、この割引券を利用して銭湯に行ったのは、1、2回しかなく、寮の浴場は利用できず、銭湯にもあまり行ってないとすれば、当時はどうしていたのでしょう。夏場などデモをすれば、汗まみれになっていたはずですから、風呂にも入っていないとしたら、、、考えれば考えるほど不思議です。そういえば、寮で洗濯した記憶も、入寮した当初は別としてほとんどないのです。下着とか衣服の替えはどうしていたのでしょう?

 

(3)アルバイト

 当時はアルバイトもよくしていました。寮にアルバイトの口が入ってくると、全寮放送で寮生に知らせ、希望する者は、事務室に集まり、ジャンケンをして誰がするかを決めます。私がよくしたのは、映画の撮影所のバイトとお祭りのバイトでした。当時京都には東映と大映の撮影所があり、そこからエキストラの募集があるのです。その電話が入ると、何人かでタクシーに乗って撮影所に行きます。撮影所では、ほんのワンシーンを撮るために待っている時間がほとんどで、バスでロケに行ったこともあります。昼食(弁当)付で日当が1000円、それに交通費が出ました。東映では高倉健、菅原文太、大映では勝新太郎と「共演」したことが自慢です。

 

(4)研究会

 大学がストライキで授業がなくなり、「反大学」講座など、自主的な学習の機会はありましたが、寮内でも様々な研究会が持たれていました。当時の寮内には、何回生かもわからないような古参の寮生がおり、これらの人たちは、いずれも「理論家」で、何でも知っているため、研究会ではチューターなどをしていました。私が参加したものだけでも、レーニン「帝国主義論」、マルクス「資本論」の研究サークルがあり、活発に議論が交されていました。私たちは、これらの古参の寮生のことを「年寄」と呼んでいましたが、実際には、意外と若かったのかもしれません。

 

(5) 熊野寮に集う人々

 当時の熊野寮には、寮生かどうかもわからないような学生(かどうかもわからない者)が多く出入りしていました。それだけ、自由だったということでしょう。

 岡本兄弟もそうでした。兄は京大生でしたが、東大で捕まり、出てきた後、熊野寮に来て、さかんに寮生をオルグしていました。私もオルグされた1人でしたが、彼はいつのまにか赤軍派に属しており、後によど号をハイジャックして北朝鮮に行ってしまいました。その兄の関係でか弟も熊野寮に顔を出していました。彼は、鹿児島大生だったと思うのですが、後にテルアビブで銃撃戦をすることになります。

 その他に、太陽の塔に立て籠もった人も、一時熊野寮にいたことがあります。

5 私は、二回生の時に熊野寮自治会の書記長になり、その立場のまま9月の時計台闘争に関わることになります。8月に大学立法が制定され、全国の大学闘争がつぶされようとしている中、京大への機動隊導入に備えて、京大の象徴でもある時計台を封鎖し、そこに立て籠もったのです。熊野寮からは私と伊藤公一さんの2人でした。寮闘争から始まった京大闘争の一転換点として、自然の流れとして時計台に入ることを私は選択したと思います。

 そして逮捕され、約10年の裁判を経て、現在弁護士をしています。

 文学部(後に経済学部)という法律に全く関係のない学部にいながら、弁護士になったのは、自分の裁判で弁護人をしてくれた弁護士(崎間昌一郎先生)から「君は弁護士に向いている」とすすめられたこと、前科持ちになったことから、京大に研究者としても残れず、企業にも就職できなかったことによります。司法試験という国家試験に通れば、前科があっても、裁判官や検事は無理でも弁護士にはなれると聞き、その道を選んだのです。

 今から考えれば、大学に入ってから以降の私の人生(45年を超えますが)を決めたのは、熊野寮であり、熊野寮が全てのスタートだったと思います。熊野寮での様々な人との出会い、体験がその後の自分を形作り、今の自分があるような気がします。その意味で熊野寮のことは、当時の寮生の名前と顔を思い浮かべながら、なつかしく、良き思い出として残っているのです。

 

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