⑥資本主義の発展における国際的契機と国内的契機              ーロシア1800~1860「ロシア工業史研究」を手がかりとして

 1973年京大文学部を卒業後、同大学経済学部に学士入学したが、そこで初めてゼミなるものを経験した。東大から来た大塚久雄門下の渡辺尚先生のゼミで、各国の資本主義発達史を比較研究するというものだった。野呂栄太郎の「日本資本主義発達史」をベースにしながら、ゼミ生一人一人が一国を担当するということで、私はロシアを担当し、この論文は、ゼミでの報告に基づきまとめたものである。この論文を書いた翌年にはレーニンの「市場論」についての論文を書いたが、それは私の手元には残っていない。


 

(1)  本年度の第15回ゼミ(11月5日)で、有馬達郎著『ロシア工業史研究-農奴解放の歴史的前提の解明-』の第1回レポートを、本書全体を貫く有馬氏の基本的視角 1)に焦点をあてて行なった。その際に、氏の視角を、日本のロシア史研究に画期的転換をもたらしたと思われる和田春樹氏の論文・視角と比較・対照することにより2)、有馬氏が基本的には和田氏の業績の上に立ちながら、それに批判的にかかわることを通して新たな地平を切り開こうとしている、ということを指摘しておいた。3) そして有馬氏のめざすロシア史研究の新たな地平が(実証的研究ということを基礎として)氏の研究の成果として実際にもたらされているかどうかを我々は本書全体を通して検証していかねばならないわけだが、その作業を進めるにあたって、有馬氏と和田氏もしくはその他の研究者との間に論点の差異がどこにあるかを<何が問題となっているか>ということとして理論的諸問題の整理を行うことが必要だと考えて、それを第1回レポートにおいて行ない、5点をあげておいた。4)

 本稿はその「理論的諸問題の整理」の中の1点、すなわち「資本主義発達史における国際的契機と国内的契機について」をとりあげ、その点から本書全体を検討しようというものである。本書全体をその視点からいわば<縦わり>にしてながめてみようというわけである。

 本書がロシアを対象として、しかもその1800-1860年を対象としている限りにおいて、本稿も直接的には当該年代において、ロシアの「資本主義発展における国際的契機と国内的契機」をみていくことになるわけだが、私の問題意識としては、ロシアにおいて資本主義の本格的に確立した時期とされる19世紀の後半における当問題、ならびにロシアのみならず中国、日本といったいわば後進国の資本主義発展における国際的契機と国内的契機について考えていく際の基礎視点、基礎理論を本稿を通じて獲得したいということがあるのである。

 本稿が中間報告であるのは自ら設定した課題すら充分果せないだろう(中間的なものに終るだろう)という推測があることの他に、私の設定した課題自体が「ロシア工業史」もしくは「ロシアにおける資本主義の発展」をみていく際の部分的な問題設定にしかすぎず(重要な問題ではあるが)、他の諸問題との関連ならびに総合においてはじめて先に述べた新たな地平の検証はできるだろうし、従って「ロシアにおける資本主義の発展」をみていく視点(これは後進資本主義国における資本主義的発展をみていく際の共通の基礎的視点を含むと思われるのだが)が得られるだろうと考えるからである。

 その意味で他の「理論的諸問題」の検討、ならびに諸問題間の関連、そしてトータルな視野からの『ロシア工業史研究』に対する評価・批判は来年度の最終報告にゆずりたいと思う。

 

  • 注1) 11月5日のレポートの際のレジメP.6参照。
  •  2) 11月5日のレポートの際のレジメ別紙 注4、5、6参照。
  •  3) 11月5日のレポートの際に口述。
  •  4) 11月5日のレポートの際のレジメ別紙2枚目「理論的諸問題の整理」①~⑤参照
  •  5) ここで私が思い浮かべるのは、日本については例えば服部之総氏の明治維新史に関する研究の中での国際的契機重視論から国内的契機重視論への移行であり、又中国についていえば例えば『中国近代国民経済史 上・下』(中国近代経済史研究会編訳・雄渾社)の中にみられるような、中国研究者内部での見解の不統一である。後者については(これは私個人の感じなのだが)アヘン戦争を媒介にした先進諸国の経済侵略といったいわば中国にとっての国際的条件が、中国経済社会内部に及ぼした影響を考える際に、一方で国内的にはアヘン戦争直前(封建末期)に、資本主義的発展をもたらすような条件が醸成していたにもかかわらず、「2度のアヘン戦争を通じて資本主義侵略者は中国がしだいに資本主義社会へと発展する可能性を奪いとり、中国を半植民地半封建社会への道に進ませ、そしてそれによって中国社会の発展を阻害し」たとする見解があり、他方で「資本主義国の後進国侵略がもたらした必然的な結果の1つは、後進国に資本主義的関係の発展をひきおこし、資本主義的近代工業の発生をもたらしたことであった」とする見解があり、その2つの見解が並行して述べられていることに疑問を感じるのである。日本・中国における資本主義発展における国際的契機と国内的契機、この比較史的な研究は相当興味のある問題である。私はこれにロシアをからませ、ロシア-日本-中国といった比較を、直接的には本稿の対象としないながらも、常に頭の中に留めておきたいと思う。

 

(2) 11月5日の第1回レポートを部分的にくり返すことになるが、本稿を展開するにあたって前提として本稿の課題に限定して有馬氏の基本的な視角をまず整理しておきたい。

 氏は「序章、課題の設定」において、従来のわが国のロシア史研究が「ロシアの近代化と国際的契機(あるいはこれと連動して展開されるツァーリ国家の諸政策 1)) との関連を重視する方向へ偏している」ことに疑問を発しつつ、又「ロシアにおける資本主義の発展にとっての国際的条件(あるいはツァーリ政府の育成策 2) )を強調する立場は同時に、改革前における工業発展を、あるいは資本制生産としての工業の発展を低く評価する立場でもある」と述べて、自らの課題を改革前約半世紀の「経済発展の動向、およびそれが農奴解放までに到達した高さを確定すること」に設定する。そしてその限りで国内的契機を重視する立場(もちろん氏の研究の結果として)に立つわけだが、それが単に国際的契機を切りすてたものでないことを氏は「改革前の経済発展の動向は、国内的条件を基柢にすえつつも、国際的条件をも絶えず視野のうちにおいて解明される」と表現している。「19世紀前半はイギリスを基軸として資本主義世界体制が形成される時期である。当該期ロシアの経済的基礎過程の動向はこの世界史的条件に強く規定される」ことはいうまでもない、というわけである。

 以上が「ロシアの資本主義発展における国際的契機と国内的契機」という本稿の課題に関連した有馬氏の基本視角だが、ここで述べられている「国内的条件を基柢にすえつつも、国際的条件をも絶えず視野のうちにおいて」という視角が、本書中の本論部分において、つまり、改革前の経済発展の動向の解明においていかに生かされているか以下みていこう。

 注1)、2)とも引用文中の( )は本書中にはなく私がつけたものである。有馬氏はこの2つの引用文からもわかるように、国際的契機又は、国際的条件というものを国家・政府の政策と結び付けて考えている。私はこの2つをとりあえずは分けて考えたいということ、その上でその両者の関連を「国際的契機と国内的契機」の問題としてとりあげたいということで、後者を(  )に入れておいた。このことは後にふれる。

 

 

(3)  課題を研究するにあたってまず明らかにしなければならないのは、「国際的契機とは何であり、国内的契機とは何であるか」ということであろう。1) どちらを重視するかという論争の中でも、このことが意外と明らかになっていないことが多いし、明らかにされないままになされていることが多い。2) 我々はこのことをふまえた上で「国際的契機と国内的契機について」という課題を、ここで(更に明確にするために)とりあえず「国際的契機とは何か」「国内的契機とは何か」というふうに設定し直してみよう。それを明らかにすることは、先の課題を解くにあたっての前提であると同時に、実はそれが明らかになれば、先の課題もほとんど解けたと同様であるという意味で結論でもあるのである。

 また「国際的契機」と「国内的契機」の両者において特に明らかにされねばならないのは前者であろう。もちろん後者もその概念自身不明確ではあるが、前者が明らかになればそれとの対比の下に後者もある程度明らかになると思われ、両者の関連も明らかなると思われるからである。

 従って本稿の中心課題を「国際的契機とは何か」の解明におき、以下『ロシア工業史研究』に依りながら3)、国際的契機と思われるもの、同じことだがそれが及ぼす国内経済社会への影響を、歴史年代順に、具体的・個別的な歴史事象の中から拾い出し、整理することから作業を始めてみよう。

  •  注1) この点は、第1回レポートにおいても渡辺先生から指摘のあった点である。
  •  注2) ロシア史研究の中で、この「国際的契機とは何か」をはっきりと定式化したのは和田春樹氏である。第1回レポートの際のレジメにも引用しておいたが氏によれば「国際的契機とは、単なる外交史的事実ではなく、まず資本主義の世界史的発展段階、それに照応する世界市場構造、それらに規定される国際政治の構造とダイナミックス、これだけのものによって構成されている。(『歴史学研究』別冊「近代ロシア社会の構造」より)と述べられている。この言葉はもちろん氏の研究の結果として要約的にかつ抽象的に述べられたものであり、この定式化されたものを念頭におきつつ、しかしもう一度白紙にもどして氏によって否定された「単なる外交史的事実」をも含めて、個別的契機といったものを拾いながら、下向過程をたどるというのが私の本稿での試みなのである。
  •  注3) ちなみにいえば『ロシア工業史研究』の中に「国際的契機と国内的契機について」まとまった有馬氏の叙述があるわけではない。この点は例えば「理論的諸問題の整理」の2点目「政策と基礎過程との関連」がある程度本文中にその点にかんするまとまった氏の見解が表明されているのと対照的である。従って課題を考えるにあたって我々は本文中から「国際的契機」を拾い出すことを通して個別-全体的な「国際的契機とは何か」を明らかにするとともに、「国際的契機と国内的契機」の関連について先に述べた氏の視角を実証しうるか否かを本分全体の中で検証していくという方法をとらざるをえないであろう。
  •  注4) その場合『ロシア工業史研究』の年代区分すなわち1800-1860年を20年ごとに区切るという方法を一応ここでも採用して以下整理していきたい。

 

(4) 1800-1810年代

① ナポレオン戦争… ナポレオン軍の侵入は多くの工場、製造所が焼失することにより、また原料と道具が掠奪されたことにより、モスクワの工業、とりわけモスクワ県の主要工業部門である繊維工業、中でも市部に集中する羊毛・綿織物工業に大きな打撃を与えた。1812年はこのため作業場数、労働者数ともに急落を示す。

 しかし、一方これを契機として(捺染綿布需要の急増を背景として)、ウラジーミル県ではイヴァノヴォを中心として農民主体の綿布捺染業の繁栄が始まり、また他方戦火後のモスクワ工業の復興も急速に進み、その後の作業場数、労働者数の伸び率は戦前を上回るほどになる。

(戦争による一時的一地域的な工業の没落と、それに規定されての他地域における工業の勃興、打撃を受けた地域工業の再生。)

② 1801年、1810年、1816年関税 1)

 ㋑ 1801年自由主義的関税への転換…先進国イギリスを中心とする国際分業体制に順応しおうとするものである。安価な消費物資の輸入と有利な穀物輸出を推進することによって領主層の利益を実現しようとする。  

 ㋺ 1810年保護主義的関税…大陸封鎖への参加にともなう対イギリスから対フランスへの主要貿易相手国の転換は穀物輸出の急減と完成品の流入を結果する。この非常事態への当面の対策としてこの関税が設定される。

 ㋩1816年自由貿易方向への転換、1819年自由主義的新関税の設定、1815年のウィーン会議におけるロシア皇帝自身の主唱による国際協力体制の確立が翌年の自由貿易方向への転換をもたらし、1818年の三国会議におけるプロシア、オーストリアの要求を容れることによって翌年の新関税が設定される。

 このような関税政策が国内工業にどのような影響を与えたかというと、

㋑は農業振興の促進を意図したものであり、国内工業には否定的な影響しか及ぼさない。

㋺は国内工業にとっては一時的刺激とはなったものの、一年ごとの更新のうちに含まれる自由貿易への転換のたえざる不安が工業企業家の将来への見通しを困難にし、その活動を委縮させる。(この関税はもっぱら外交政策上の非常事態への応急措置として実施されたものであり、従って国内工業の育成が本来の意図ではなかった。)

㋩はたまたイギリス経済の不況期と重なったこともあって、イギリス商品の大量流入をもたらし、ロシア工業に破壊的な影響を与える。

 先にみた㋑~㋩というこの時期の関税政策の動揺は、1つに国際情勢の変化に規定されるとともに、他方支配階級内部の利害対立関係にも規定される。本稿は政策それ自体をとりあげる事が目的ではないので、ここでは国際的契機がもっぱら政策を媒介として国内に影響をもたらすという点と、その媒介となる政策が、ある国際的契機から一義的に出てこないで、支配階級内部の対立関係に規定されて2)、さまざまな形で(ある時は正反対の形で、またある時は中間的なものとして)出されうるという点、従ってこの場合は国際的契機ということの国内工業の発展に及ぼす作用は媒介となる政策に左右されるし、その意味で一時的ではないという点だけを指摘しておこう。

③ イギリス産業革命の刺激… 19世紀初頭以降展開される工業育成策の内容は、模範「官営工場」の建設、先進工業国への官吏派遣、先進技術に関する資料の無料配布、外国人技術者の招致などだが、これらの政策は、イギリスでの産業革命の急速な進行に刺激されて、かつ国内的には、工業立国論(関税論争における保護貿易論)の主張を背景として、それらの利害を任ってとられたのである。そして特に綿工業、中でもイギリス産業革命の波頭に立つ綿紡績業の移植に大きな努力が払われた。この点が普通「上からの資本主義化、工業化」の主張と結びついて、国際的契機として重視される点であろう。しかし、このことは後にふれる予定だが、このような先進国の産業革命の進行に触発されての、機械・技術・人間(技術者)の輸入、総じて資本主義的工業の移植ということが可能か否か、また可能だとしたら何故に可能かという問題として、国内的な基盤との関連で問われねばならないだろう。これは「国際的契機と国内的契機の関連」の問題である。

④ その他… 個別産業的には、この時期の戦争準備過程での兵士軍服用ラシャの需要増大が羊毛工業を振興させたり、また1812-14年の戦争終結後の蔗糖輸入の急増と穀物価格の上昇という状勢の変化が、国内製糖業を低迷させるということがあった。

 (国際的契機の産業部門ごとに異なる影響。)

 

  • 注1) ここでは、関税政策と結びつく限りでの国際的契機をとりあげる。関税政策の変遷という面から逆にそれをもたらす国際的条件、ならびに国内的影響を整理したい。従ってこの(4)の②(そして更には(5)の①、(6)の⑥)は小見出しとしては他のものと異って直接的には国際的条件・契機を表現するものになっていないが、この点は他の場合と整理の仕方が逆だということに留意されたい。
  • 注2) この場合、ロシアにおいては工業化を推進する産業ブルジョワジー対農業生産に固執する封建地主との対立という構造をとらず、農奴制的経済構造の枠内での工業化推進論と農奴制耕作を基盤とする農業立国論との対立、すなわち農奴制体制を前提としたその内部の利害対立であった。

 

(5) 1820-1830年代

① 1822年関税… 前年代(1800-1810年代)の終わりに設けられた1819年関税がイギリス商品の大量流入をもたらし、国内工業に大打撃を与えたことは先にふれたが、それに対処して設定された22年関税は国内産業の強力な保護育成という性格をもち、当該年代(1820-1830年代)のみならず、50年までほぼ30年にわたっての基調となる。特に改革前ロシアの基軸的製造工業部門であり、イギリスとの生産力格差の大きい繊維工業の諸製品に対する禁止措置、あるいは関税率大幅引上げの政策をとったことは、後にすなわち1840-1850年代におけるこの部門での国内の機械制生産定着のための条件を醸成させることになる。

② イギリスの側圧… イギリス機械輸出禁止という先進国イギリスの側圧は、そのために低性能のフランス製、ベルギー製紡績機に依存しなければならず、資金及び熟練紡績工の不足、国産綿糸に対する偏見、国内商人の企業意欲不足など他の諸原因とともに、ロシア紡績業発展にとっての大きな桎梏となっていた。しかしこのような中でも、30年代中葉にはペテルブルクに「三大紡」が成立し、これがロシアにおける機械制生産の本格的定着の起点となる。

 この点は先に述べたイギリス産業革命の刺激という点と関連させて、総体として先進国イギリスの存在がロシアの国内工業発展に如何なる意味をもったかとして考察されねばならないだろう。(この点は後にふれる予定。)

③ 先進国での恐慌… 1837年恐慌の波は幼弱なロシア綿紡績業にも容赦なくおし寄せる。イギリスからの大量流入を原因とする綿糸価格の異常な低下と売れゆき不振は、いくつかの紡績工場を閉鎖させ倒産させた。このような状況の中で巨大紡績資本が中小資本を駆逐しつつ発展する。先進国での恐慌が形成過程のロシア紡績資本の集中・集積を加速するのである。

④ 対アジア向け輸出… 当該期国内綿布生産の急増は狭隘な国内市場の壁にぶつかり、国外市場への進出がロシア綿業資本にとって切実な問題となる。20年代以降、ロシアよりもさらに後進的なアジア諸地域がロシア工業製品の市場として重要な意味をもつにいたるのである。国内工業の発展にともない、ヨーロッパの後進国ロシアのアジア諸地域向け輸出構造は、先進国型、すなわち完成品 (とりわけ綿製品)輸出への傾斜を示す。

 この点は、従来国際的契機として重視されていなかったというか、見のがされていた点ではないだろうか。後進国ロシアにとっての国際的契機とは先進国の存在のみならず、より後進国の存在をも含むのである。そして後進国に立ち向かう限りではロシアは先進国の姿をとってあらわれるのである。ロシアにおける再生産構造の中での後進国への商品輸出のもつ意味(=実現の問題)に注意しなければならない。1)

⑤ その他… ドイツ・オーストリアの穀物関税引上げにともなう20年代の穀価低落は、国内穀作経営領主の甜菜製糖への関心を再び高め、1821-31年の輸入糖関税引上げの支えもあって1830-40年に製糖場数、粗糖生産量ともに増大する。

(外国関税政策の国内への影響の一例)

  • 注1) この意味では従来あまり国際的契機が問題とならなかったイギリスにおいても、資本主義的発展にとっての国際的契機はあったというべきであろう。先の叙述でいえば、恐慌後の不況時における商品の大量の後進国への売りさばき=流出がなければイギリスにおける景気の回復はなかっただろうし、その意味での再生産はありえなかったであろう。この問題は、歴史の中では必らず出てくるのであるが、理論的にどう処理するのかというのはむずかしい問題である。(ローザ・ルクセンブルクは 『資本蓄積論』において、資本主義的蓄積における非資本制的領域(=後進国など)の問題をとりあげ、これを理論化した。

 

(6) 1840-1850年代

① イギリス 1842年機械輸出解禁、46年穀物法撤廃… この2つはロシア経済に強い衝撃を与え、貿易構造を大きく変容せしめる。すなわち、穀物輸出を増大させ、それと並行して基本的生産手段である機械の輸入を増大させるのである。イギリスの機械輸出が禁止されていた時期の中で、30年代に繊維部門の一部で開始されていた機械制生産が当該年代に他の部門にも拡大して改革までに特定業種で(紡績業、織物業、捺染業、製紙業、製糖業など)機械制工業への移行が実現する。  

② イギリスを中心とする2度の世界恐慌… 1847年、1858年の2度のイギリスを中心とする本格的な世界恐慌はロシア工業に大きな打撃を与える。当時のロシアの外国貿易額において輸出のおよそ半分、輸入の3分の1は対イギリスであるが、このような貿易構造がイギリスにはじまりヨーロッパ諸国を席巻した恐慌のロシア経済への深刻な影響を不可避にするのである。統計をみると、この2つの時期に労働者数は約10%の減少を示す。

③ イギリスの植民地市場の拡大・強化、阿片戦争… ロシアの輸出構造はこの時期において、穀物輸出が増大し、中間製品が減少するという現象をみせている。前者は先にも述べた46年のイギリスの穀物法撤廃と関連するが、後者に関していえば、中間製品の主体は動植物油、加工皮革であるが、それの輸出減少は、この時期のイギリス植民地市場の拡大・強化にともなってこれらの商品の輸入相手国がロシアからオーストラリア、南アメリカに転換したことと関連している。

また、対後進国向けのロシアの輸出構造は綿製品が主流をしめているが、輸出相手国別にみると、かつてロシアのアジア向け綿製品輸出の過半をしめていたトルコ、イラン市場は、40年代以降完全に先進国に奪回され、そこから駆逐されたロシア綿製品の中国への転進は40年代に入って大幅に行われるが、ここでもイギリス製品との角逐がおこる。イギリスは阿片戦争後の1842年の南京条約によって5港閉港に成功し、中国を綿製品市場として確保する。輸出入とも従価5%というきわめて有利な関税条件による通商の自由を獲得し、以後一時的にせよ、中国へのイギリス綿製品輸出は急増する。このことがロシアの対中国綿製品輸出に低迷をもたらすのはいうまでもない。2)

④ 外国人経営の起業… 当該年代における個別綿工業資本を系譜的にみると、特に大規模なものの中に外国人の起業になるものが多いことが目立つ。例えばペテルブルク、沿バルト地域の紡績企業などである。それは外国資本の進出というよりも、むしろ対ヨーロッパ貿易の重要な拠点であるこれら地域での大規模な通商活動を通じての蓄積にもとづいているものである。それは先進技術移植者としての有利性にもとずく外国人の起業である。

⑤ クリミア戦争… 1854年、中近東市場制覇をめぐってロシアとヨーロッパ列強との間に起ったクリミア戦争におけるロシアの敗北は、ツアリズムの経済政策の基調を、農奴制維持から産業資本育成へと決定的に転換させることになる。特にクリミア戦争の際に暴露されたロシア軍事力の決定的立ち遅れはそれを克服するために、機械工業の育成を急務たらしめる。

⑥ 1850年関税… 50年関税は産業資本の確立を遂げたイギリスの貿易自由化要請にこたえるものである。それは18年関税のごとくロシア工業に打撃を与えることなく、むしろ外国商品が流入したことが(それとの競争が導入されたことが)国内工業を刺激し、生産方法の改善と製品の低廉化をもたらした。それによって工業部門のどれも打撃を受けなかったばかりでなく、多くの部門に一層の発展をもたらしたのである。そしてこの50年関税が国内工業に悪影響を与えず、関税収入も減少させず、貿易収支もむしろ出超であったことから、この50年関税を基調として、より徹底した関税引下げを内容とする57年関税を実施するのである。

  •  注1) 特に、綿紡績業ではイギリスからの技術変革の成果の導入によっていきなり機械制大工業が成立する。
  •  注2) しかしこのことがロシアの国内の綿工業に打撃を与えたかというと、そうでもない。というのは、1つは地理的・政治的にロシア綿工業資本にとって有利な条件下にある中央アジア向け輸出が増大したからであり、また他方国内市場が拡大したからである。
  •  注3) 同じ自由主義的関税でありながら、18年関税が国内工業に打撃を与え、50年関税が国内工業に刺激を与え、逆に発展をもたらしたというその相違の根底には、当然のことながらその約30年の間に、先進国の商品と価格、品質において競争しうるほどまでにロシア工業が発展したという事実があるのである。

 

(7)  以上一応便宜的に20年ごとに区切って(本書の年代区分にのっとって)個別国際的契機を本書の叙述を要約・整理しながらみてきた。1つ1つの国際的事件と国内経済社会(=工業発展)との因果連関に不充分な点を残しながらも「国際的契機とは何か」に答えるための素材的準備にはなるだろうと思われる。以下20年ごとのワクをとり除いて当該年代全体のロシアにおける「国際的契機」を契機別に整理してみよう。

(1) 戦争((4)の①、(6)の⑤③)
 形式的に分けなければ、自国対外国の戦争と自国を含まない戦争に分類できる。領土的に侵入された場合は、一時的一地域的な直接的打撃を蒙るというマイナス面もあるが、軍需の増大という点で特殊にある部門が発達するというプラス面もある。自国を含まない戦争の場合は市場問題として連関する。
近代以降の戦争はその国の工業発展、とりわけ機械工業の発展に左右され、従ってそれを発展させる。

(2) 恐慌((5)の③、(6)の②)

産業資本の確立していない段階では、自らの再生産のうちに恐慌を含む産業循環を経験しえないが、貿易(国際分業)を通して先進国の再生産工業のうちに深く組み込まれているために、同じような様相を程する。つまり先進国における恐慌時の商品の大量な滞貨のはけ口として位置し、従ってその商品の流入によって国内の中小の工場は閉鎖・倒産し、大企業の下への集中・集積がそのことによって加速される。

(3) 貿易=国際分業((4)の②③、(5)の②④、(6)の①③④⑥)

 対先進国の貿易と対後進国の貿易に分類できる。国際的契機としての後者の重要性については既にふれた((5)の④)ので、ここでは前者を整理しておこう。

 先進国とはここでは主にイギリスである。当該年代において、イギリスは産業革命を経過し、本格的な産業資本の確立に到る。当該年代中では1842年の機械輸出解禁以前と以後とではイギリスとの交易関係は異なる。それ以前は国際分業体制というそれ自体としてはリカードの比較清算費説的にいえば、いずれの国にもメリットのあるべき体制も、後進国の側からみれば、その中で自らの工業化を推進しなければならないということであり、それが関税政策における保護関税として繁栄する。42年の機械輸出解禁以後は、文字通りイギリスの産業革命の技術的成果を輸入し、自らの国内の工業化を達成する。

広い意味での「国際的契機」とは以上の全てを含むであろう。2) その中には国内の工業発展にとってプラスに作用するものばかりでなくマイナスに作用するものもある。また以上のような契機別の分類とは別に、政策を媒介として国内に作用する国際的契機と政策を媒介としない国際的契機といった分類も可能であろう。3)

 しかし、上のような国際的契機の捉え方はそれ自身として個別の総和であるかぎり全体的であるかの外観をもっているが、実は分類はあるが、その相互連関と、何が根本的に規定するかの分析がない点で無概念的になってしまっている。「資本主義的発展にとっての国際的契機」とは、個別国際的契機の単純総和としてあるのではない。

 そもそも根本的には資本主義の発展とはいかなる形態をとうのかということが問題とされなければならない。ロシアの1800-1860年の工業発展における国際的契機をみていく際に、くりかえし登場してきた先進国イギリス。

 この先進国イギリスの資本主義の発展は、「その支配の範囲をたえず拡大することなしには、また新しい国々を植民地化し、非資本主義的な古い国々を世界経済のうずの中に入れることなしには、存在し発展することができない。」5) 必然性をもっていたのであった。それは国内的発展が同時に世界市場を形成していく過程であったことを示している。ロシアのみならずイギリスより後発した国々はいずれも、そのようなイギリスを中心とする世界史の展開の中で自からの国の資本主義化をなしとげねばならなかったといってよい。イギリスの機械輸出禁止→解禁等のイギリスの対外政策から一定の影響を受けながらも、この時期のイギリスの資本主義の「促迫」ということを、ロシアにおける資本主義的発展にとっての国際的契機基本的モメントとしてよいと思う。それと共に、私が強調しておいたロシアより後進国への商品輸出という契機も、前者に比較したら比重こそ小さいが、重要なモメントとして考えたい。

  • 注1) (1)(2)に属するものを除いて他の個別的契機を全部これに含めてしまい、「貿易=国際分業」としたが、これには少し無理があるかもしれない。というのは先に述べた1つ1つにあたってみるとわかるが、貿易が直接的な原因として作用しているというよりは、自国又は他国の政策の結果として貿易構造に変化をもたらし、それが国内工業に影響をもたらすという経路をたどっているからである。
  • 注2) また、『ロシア工業史研究』ではその書物の性格上ふれられていないが、国際的契機とは単なる国際的な政治史・経済史に属する事実ばかりでなく、文化史的・精神史的事実をも含めるべきだろう。
  • 注3) 一般的には今までの個別的契機の分析からも明らかなように、国際的契機とは多くの場合中央政府の政策を媒介として国内経済と結びついている。従って国際的契機の解明には「政策」の解明が必要であり、「政策」の分析→「国際的契機」の分析というアプローチが今後の課題となるだろ。
  • 注4) だからといって今までの作業全てが無駄だったと自己否定しているわけではない。個別的契機を拾い出し整理する、そしてまた分類し整理するということの中に本質的契機をつかむための「契機」と「方向性」がひそんでいるからであり、そのために不可欠な作業となっているのである。
  • 注5) レーニン「ロシアにおける資本主義の発展」レーニン全集第3巻、大月書店629頁(ハ)

 

 「国際的契機と国内的契機」というテーマのもとに出発し、実際にやったのは「国際的契機」だけという結果に終ってしまった。(1)での私の「自ら設定した課題すら充分果せないだろう」という推測は当ってしまったようである。

 本稿を終えるにあたって一応の結論と今後の課題を述べたい。

 当該期のロシア工業発展にとっての国際的契機は契機として作用するだけの充分な具体的歴史的事実をもっている。その意味で国際的契機を無視しえない、というのが1つの結論である。しかしだからといってロシアにとってまったく他律的にその影響、規制を受けるという一方的な関係でもない。国際的契機はあくまで契機であり、国際的条件はあくまで条件である。イギリス資本主義が世界市場を一方的に展開してくるという事実関係に発しながらも、それに対してロシアが国内の社会的経済的、階級的条件をふまえて、それにいかに対応し、(政治的・経済的に)、自からをいかに発展させていったかという、その相互媒介的な過程が問題である。

 ロシアの資本主義的発展おける国際的契機と国内的契機についても、どちらを重視するかということを「ニワトリとタマゴ」の論争に終らせないためには、その相互の関連を具体的に明らかにすることが必要である。個別的国際的契機の整理の中で、簡単にその関連についてはふれたが、それは国際的契機の側からみた、その影響・作用ということであった。従って今後の課題としては、逆に国内的条件を整理し(これも国際的条件を切りすてた純国内的条件としてはできないが)それが国際的条件とのからみあいの中で、如何にロシアの資本主義発展としてなされていくかみていくことが必要であろうと思われる。

 

以上

 

 


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