⑤ 京大闘争覚え書

 京大時計台裁判で、裁判所に提出する書類の一つとして私が書いたものです。京大闘争全体を明らかにするものとして、被告人の最終意見陳述と合わせて裁判所に提出しました。
(「京大時計台裁判の10年」第Ⅰ集所収)


 目 次 

 1 京大闘争の始源

(1)  学生部占拠―3項目要求(1月)

(2)  「狂気の3日間」-8項目要求(1月)

 2 京大闘争の展開―C闘争を中心に

(1)  ストライキ突入(1月末~2月)

(2)  入試強行阻止―「正常化」粉砕闘争(3月~4月)

(3)  C後期レポート試験粉砕闘争(6月~7月)

(4)  中教審答申・大学立法粉砕闘争(5月~7月)

(5)  時計台闘争(8月~9月)

 3 京大闘争とは何かー総括にかえて

 附1  時計台闘争においてとった我々の行動形態についての見解

 附2  機動隊による封鎖解除は如何にしてなされたか

 

 

1 京大闘争の始源

 

(1) 学生部占拠闘争―寮3項目要求(1月

  69年1月14日午後5時から、寮3項目要求をめぐって、寮生と学生部長との間で団交がもたれた。この団交は途中から総長も加わり、総長団交として16日午前1時の決裂まで続いた。

 寮生のかかげていた3項目要求とは

 (1)無条件増寮 (2)20ヶ年長期整備計画白紙撤回 (3)経理全面公開 の3つである。

 無条件増寮とは、

 当時の京大の寮施設が非常に貧困だったところから出てきた当然の要求であり、(具体的な数字をあげれば、収容人員は670名で、全学生の7%、自宅外通学者の10%しか収容できず、これは全国平均の15%、25%と比較すると、京大の寮施設がいかに貧困だったかということがわかる。)

また、無条件とは、文部省が新寮建設に伴い、○管規(寮の管理権の学生部長への集中)、負担区分(寮生になるべく多くの負担をおわせる)を同時に貫徹する、つまり、それとアベックでなければ寮は建てないという新寮攻勢をかけてきているため、それに対抗して、○管規・負担区分のつかない寮を、という意味である。

 「20ヶ年長期整備計画」とは

 68年11月に大学当局から発表された建設計画を中心にした京大の改編案だが、その白紙撤回を要求した直接の理由は、その「計画」の中に、吉田東寮の廃止が含まれていたからである。寮生に何の相談もなしに、こんな計画を立てられたら困るというわけで、その白紙撤回を要求したが、考えてみれば、これは寮に限らず、全学的にあてはまることであり、立案と最終的な決定を当局が握ったこのような「計画」を許すことはできないということで、全面的な白紙撤回を要求した。

 経理全面公開とは

 何故このような要求がでてきたかというと、直接的には、寮のさまざまな要求に対する大学当局の「財源がない」という理由の当否を確かめるためである。しかし、この「経理全面公開」は、現在の大学の財政を明らかにすることを通して、

大学の支配秩序をあからさまにさせる意味をもつものと思われる。

 これらの3項目要求に対して、大学当局は、(1)無条件増寮はできない。(2)「20ヶ年計画」は、寮の部分については白紙撤回するが、全面的な白紙撤回はできない。(3)経理全面公開は、実現の方向で努力する。

 と回答した。

 無条件増寮が出来ない理由を、寮生が自主選考をしているからとしているが、寮生の募集・選考を寮生自らの手で行うことは、寮の自治にとって基本的な事柄であり、何の問題もないはずである。入寮者の名前は公表しているし、大学側もそれを掌握しているはずである。増寮という切実な要求を逆手にとって、長い闘争の結果勝ち取ってきた寮生の諸権利を剥奪せんとしたり、または現在的な闘争を圧殺せんとしたりするのは、当局の常套手段であり、これまでとってきた一貫した態度である。

20ヶ年長期計画を寮の部分に関しては「寮生との話し合いを経ずして出されたもので」白紙撤回するが、他の部分は出来ないという。何故寮と他の部分を分けるのか。寮にあてはまる理由は、他の部分にもあてはまるはずである。つまり、他の部分も、当該部局の構成員と話し合いを経ずして出されているのである。全面的な白紙撤回を拒否する理由は何もないのである。

経理全面公開は、拒む理由が何もないことは当局も認めている。従って、いつ、どんな形で公開するかが問題となるが、当局の「前向きの姿勢で」とか、「実現の方向で」とかいうのは、この点を不明確のまま残し、一般的に、その場のがれの空文句であることに気をつけねばならない。

 我々の3項目要求に対する当局の対応、ならびに回答はこのようなものであり、いずれも我々を満足させるものではなかった。当局は団交の過程で、自らの言い分の論理的破産を宣告されながらも、自らの回答に固執しつづけ、団交は進展のないまま、16日の午前1時に決裂した。その場にいた寮生はただちに学生部を占拠し、入口を閉ざして3項目要求貫徹の闘争に入った。

 寮生は何故、学生部を占拠・封鎖するという行動に出たか。

寮闘争の長い歴史を抜きにして、この行動の意味を考えることは出来ない。増寮闘争は、69年段階で14年の歴史を持つ。その歴史の中で、当局は一貫して増寮への取り組みをネグレクトし、団交の場で確約しても、繰り返し裏切ってきた。いやそれのみならず、寮生―学生の増寮への切実な要求を逆手にとって、それを寮生と寮外生を分断し、寮闘争を弾圧する道具に使ってきた。いわく「君たちが・・・をやっているから寮は建たないんだ。・・・をやめたまえ。」と。寮生はある時は、寮費値上げに反対しての不払い闘争をやめてまで、増寮への期待につないだ。しかし、それでも寮は建たなかった。このような長い増寮闘争の中で、寮生は当局を信頼できなくなってきたといえるだろう。当局のいう「話し合い」が、ある時は、寮生を丸め込むために用いられ、又ある時は露骨に弾圧の場として用いられた。

 1月の学生部占拠は、長い増寮闘争の歴史の中で、一般的に「話し合い」を積み重ねても問題は何も解決しないことを知った寮生の、新たな問題解決への飛躍の表現であり、又、裏切られつづけてきたことへの蓄積された怒りの表現でもあっただろう。そしてそれが学生部という場でなされたのは、学生部が学生のサービス機関としての外観をもちながら、実は、寮生との関係の中でみられるように、学生を管理―抑圧する機関として存在してきたということを告発し、学生部のそのような機能をストップさせるものとして学生部の占拠―封鎖はなされたのである。

⑩ 我々の学生部占拠に対して、当局は翌日から、印刷物の配布、マイク等で、「封鎖を解除して話し合おう」と呼びかけた。

しかし、この当局のいう「話し合い」とは、次の点で欺瞞的なものであった。それは先に述べた過去の「話し合い」を自己批判せずに出されてきた者であること、そしてそれに関連するのだが、3項目要求に対する新たな回答を準備しての「話し合い」ではないということ。このことは当然、「封鎖を解除して」という前者の部分に力点がかかることになり、一方で「話し合い」を強調しながらも、実は裏で学生部封鎖を暴力的に解除していく準備がおしすすめられていくことになるのである。

⑪ 学生部占拠は結果として学内に流動化状況をもたらした。賛成―反対両方を含めて、学生部の前には討論の輪ができあがり、何らかの形で、各人に寮闘争を考えることを迫った。過去14年間、どうしても全学化しえなかった寮闘争は、結果的には、学生部占拠をもって一挙に、この時点で全学化したといえるだろう。後に述べるように、団交の過程から教養部(以下Cと略す)の多くの学生が参加し、C闘準備会ができたし、文学部・医学部両自治会の支援体制も出来た。また、19日には、助手・院生の共闘会議もでき、職員の中からも奥田当局に対して批判の声があがるようになる。

 

2 京大闘争の始源

 

(2)「狂気の3日間」-8項目要求

① 1月21日、この日我々は学生部前で全関西集会を予定していたが、それに対して当局は、学外者立ち入り禁止の措置をとり、各門で検問を始めた。

② そのため集会は、C正門前で開かれ、その後、学生部前に移動しようとして正門前でこぜりあいが起こるやいなや、正門にはたちまち内側からバリケードがきずかれ、これが翌朝までには、本部全域にわたって拡大されることになる。いわゆる逆バリケード=本部ロックアウトである。

③ 外部から突入しようとする者に対しては、内部から放水、投石などがなされ、又、東一条の通りの学生を排除するために機動隊の要請もなされた。内部にいる者にはヘルメットその他のあらゆる資材が提供され、又、「日大全共闘700名が新幹線で京大に来る」などのデマゴギーをスピーカー・ビラなどで流し、危機感をあおりたてた。

④ そのような中で、22日学生部封鎖の暴力的解除が始まった。前日から学生部に通じる電話・電気などが切られ、更にガス・水道なども止めた上で、当局の提供するあらゆる資材(ホース・ドリル・ペンチ・鈎つきロープなど)を駆使して封鎖解除が始まった。学生部前には、封鎖解除に反対する多くの学生が座り込んでいたが、彼らにも放水を浴びせ、かつ暴力的に排除して、解除がすすめられたのである。

23日に学生部封鎖は解除される。

21日から23日のこのような事態の一切が、後に「狂気の3日間」と呼ばれるものである。

⑤ この「狂気の3日間」の事態は、突発的な出来事ではなく、実は当局によって事前に準備されたものであった。18日、19日と連続して開かれた五者連絡会議

(教職組、同学会、院協、生協理事会、生協労組・・・共産党系)と総長との団交で、封鎖建物への電気・ガス・水道などのストップ、ならびに学生部封鎖の解除のための資材の提供が約束されていたし、また21日の全関西集会に対しては、この日に「封鎖が拡大する」「時計台封鎖を狙っているらしい」などとデマを流し、折りしも18-19日に東大の攻防戦があったことから、「京大を第二の東大にするな」のキャンペーンをはって、危機感をあおり立て、前日の20日から、教職員、院生、学生を泊り込ませて、翌日の準備をすすめたのである。

⑥ 23日、学生部封鎖が解除されたのち、学生部の中に居た学生を連行して「封鎖

糾弾」の集会が法経1番教室で行われた。しかし、この集会は、熊野寮委員長の発言を契機として、封鎖解除を糾弾する集会に逆に切り替えられていった。学生部長が引き出され、ついで総長が引き出され、25日の団交が取り交わされた。

⑦ 23日のこの転換の理由は何であろうか。

もちろん、この間外部にいた者が、やっと中に入れて、「狂気の3日間」の事態に対して、当局に対する批判を開始したことが一つあるだろうが、それ以上に重要なのは、その間、中にいて「京大を守った」とされる2000とも3000ともいわれる人々の中から、反省が出てきたことである。

確かに「狂気の3日間」の事態は、客観的にみて「話し合い」を貫くはずだった大学の基本方針とは反するし、またよく言われる「理性の府」にはほど遠いものだった。

「自らの守ったものは一体何だったのか」が、ロックアウトに参加した全ての者に問われることになった。

⑧ 25日から27日まで開かれた総長団交では、「狂気の3日間」への怒りが集中し、当局に対する自己批判を要求するものとなった。要求項目は3項目から8項目に一挙に増えた。

8項目要求とは以下の如くである。

(1) あらゆる武器を駆使して、学生部封鎖を解除したことを自己批判せよ。

(2) 寮3項目要求を即時承認し、実行せよ。

(3) 逆封鎖=ロックアウトと、あらゆるデマによる煽動で闘争破壊したことを自己批判せよ。

(4) 機動隊導入準備の事実をふまえ自己批判し、機動隊導入準備、官憲の捜査協力を一切するな。

(5) 今回の闘争に対して一切処分するな。

(6) 奥田学長は国大協会長をやめよ。

(7) 闘争弾圧の責任をとり、学長、学生部長は辞任し、学生部を解散せよ。

(8) 以上の点を大衆団交な場で文書確認せよ。

 これらの要求に対して奥田総長は、1項目も認めないばかりか、追及に対して答えようともせず、「黙殺の暴力」を貫いた。後に「文藝春秋」で本人が語ったところによれば、この時、総長は頭の中では、鼻歌を歌っていたそうである。

⑨ 「狂気の3日間」で学生部封鎖が解除されたことをもって一旦終息しかけたかにみえた京大闘争は、逆に「狂気の3日間」から総長団交の過程を通して、現在の京大の姿を浮きぼりにし、闘争はこれをもって全学化することになる。

⑩ この時点でかかげられた8項目要求が、京大闘争全過程における基本的要求となり、この要求に対して何らかの形で、当局が答えない限り、京大闘争の解決はありえないことになるが、その後、当局は一切8項目要求を検討することもなく、従って、何らの見解も公表せず、ただただ闘争を圧殺することにのみ狂奔するのである。

 

3 京大闘争の展開―C闘争を中心に

 

(1)ストライキ突入(1月末~2月)

① 1月30日、教養部代議員大会が開かれ、31日からの8項目要求貫徹の無期限ストライキが圧倒的多数で可決された。

② その夜の内に教養部の各門にはバリケードが築かれ、よく31日からストライキに入った。

各門のバリケードは、権力並びに学内反対派からのストライキの防衛という実際的意味の他に、ストライキの象徴としての意味をもっていた。そしてそれは、「狂気の3日間」の本部逆バリとは対象的に通路が設けられ、何人も出入り自由の開かれたものだった。

③ 8項目要求自身は、直接大学当局に向けられていたものだが、Cストライキの中では、C当局の「狂気の3日間」における無対応に対する追及が開始された。

教授会団交が要求されたが、教授会はその頃には、自らに対する責任追及を回避すべく、助教授、講師、助手を含めた「教官協議会」に自らの権利を譲渡していた。

2月17日、三谷C部長代理が、C自治会(=民青系)との団交で、Cの無期限ストに反対する、などの確認書に署名したことに端を発して更なるC当局に対する追及が開始された。18日の教官協議会では、この確認書に対する反対が圧倒的多数で可決されるが、我々の追及に対しては、C部長、C部長代理(=評議員2名)が逃亡して出席していないため、確認書の破棄は出来ないといい、その時点での教官協議会が何らの決定も出来ない、単なるおしゃべり機関でしかないことが明らかになった。

このようにCにおいては、責任機関の所在がはっきりせず、いわば「無責任体制」とでも呼べる状態がつづくことになる。

④ この間の(1月~2月)教養部闘争の中心を担ったのがC闘である。1月の寮団交の時点から主体的に参加し、学生部封鎖以後、C闘準備会として3項目要求支持のCにおける運動を作っていくのである。

30日の代議員大会に向けて、クラス討論を積み重ねる中から、数多くのクラス闘争委員会が生まれ、その連合体としてC闘が生み直されることになる。

⑤ 1・31Cスト突入を皮切りに、2月に入って他学部も続々とストライキに入ることになる。

 2・3には文学部が1・19教授会見解白紙撤回、試験制度の撤廃、教授会決定に対する拒否権などを要求して無期限ストに入り、

 2・4には医学部が医局解体、統一青医連結成をスローガンに無期限ストに入り

(部分的にはそれ以前からストに入っていた)、

 2・5には理学部が長期ストに入り、

 2・6には農学部が「教授会自治論」撤回、農学部改革委員会の設置、教授会の公開、自治会活動への干渉、抑圧をやめよ、の4項目をかかげた期限スト(後に無期限スト)に突入し、

 2・13には工学部が無期限ストに突入した。

 又、この他にも、経済学部や法学部では、学部長団交が開かれ、闘争委員会が結成され、活発な活動が始まった。

 このように、2月前半には各学部で激しい流動が起こり、2月中旬には、ほぼ京大全学がストライキに入っているという状態になった。

 

4 京大闘争の展開―C闘争を中心に

 

(2) 入試強行阻止―「正常化」策動粉砕闘争(3月~4月)

① 2月も下旬になって、当局は積極的に「秩序回復」運動を展開しはじめた。

1月20日に既に東大入試が中止されていたこともあって、「京大入試はぜがひでも実施せねばならない」として「社会的責任」を強調しつつ、「入試実施」のキャンペーンをはりはじめた。

それは、京大では「秩序が維持されている」ことを対外的に示すという目的と、対内的には、これを機に学内の秩序派を一挙に組織化し、闘争収拾をなそうと目論んだものであった。

② これに対し我々は、我々の要求に対して何ら答えないまま、強行せんとする入試は、単に年中行事としての意味を超えて、「秩序回復」運動=「正常化」のテコとして行われるものであり、従って我々の闘争に対する圧殺策動であることを明らかにしつつ、阻止闘争を闘った。

③ 3月1日には機動隊が構内に乱入し、3月3日からの入試は学外で三千の機動隊に守られて強行された。

この入試強行に関して、当局は事前に、スト中の学生はむろんのこと、学内の諸構成員と一切の話し合いを持たなかったのはいうまでもない。

④ 入試強行に始まる当局による「秩序回復」運動は、その後、Cにおいては3月末の新入生オリエンテーション、4月11日入学式、4月15日授業再開といった一連の動きとしてあらわれた。

これらはいずれも、新入生を「秩序回復」運動の主力として組織化=利用しようとする当局の策動であり、闘争破壊であるとして、我々は、これら一連のスケジュールを全て粉砕した。

⑤ このため入学式は約1分間で終了し、又、C当局の授業再開の目論見は挫折し、それにかわるものとして、4月22日より「特別講義」なるものが登場した。

教養部教官個々の興味と関心のあるテーマを選び、自由に講義するという形式のこの「特別講義」なるものは、通常の授業が出来なくなったC当局のいわば苦肉の策とでもいうべきものだが、いかんせん、講座制、単位制、試験制の中で教育―研究をしてきた教官にとって、この「特別講義」なるものは荷が重く、自らの無能さと問題意識の希薄さをさらけだすにとどまった。

⑥ 学生は、ストライキ闘争で、勉強するということ一般を拒否したのではなかった。それはこのストライキの中での、自主講座運動、反大学運動などを見てみればわかるだろう。

闘いの中で、むしろ知的欲求は高まった。「生きるための人間的な力としての知」への欲求である。

又、「大学とは何か」「教育とは何か」「学生とは何か」という闘いの中で、次々に提起された根底的な問いは、当然それらに対して何も答えられない従来の学問を否定し、自らの行動と相互の討論と、従来の学問批判から、新たな学問を創造していかねばならないとして、そのような運動となっていったのである。

学問をそのようにとらえるならば、それは京大の教官と学生という狭いワク組みの仲でできうるものでないのは明らかである。従って、反大学は全ての人民に解放された。それは「狂気の3日間」にみられる学外社立ち入り禁止、「京大は京大人の手で」という京大ナショナリズムとあざやかな対極をなしていたのである。

C闘委は3月17日、C解放区宣言を出した。

⑦ これらの学生の闘いに呼応するかのように、

3月中には闘う教官の組織「教官共闘」が結成され、

又、「狂気の3日間」以後、奥田体制の下、闘争破壊の一翼を担わされてきた職員の中からも、「職員共闘」が結成された。

 こうして京大闘争は、全学部、全構成員をまきこんで、展開されることになるのである。

 

5 京大闘争の展開―C闘争を中心に

 

(3)C後期レポート試験粉砕闘争(6月~7月)

① その後のCにおける当局による「正常化」策動の重要なものとして、後期レポート試験強行があげられる。

② これは、日本育英会による「成績を提出せぬと奨学金を打ち切る」という圧力をテコとして、68年後期試験をレポート試験として強行しようとするものであった。

③ 我々はこれに対して、我々の8項目要求に対して何ら答えていない現時点において、試験を強行するということは明確に闘争破壊であり、かつこれを契機に、なしくずし的に授業再開に持っていこうとする「正常化」策動であり、奨学金という学生にとって弱い金の問題をテコに、闘争主体の学生を分断化しようとするものであることを指摘し、レポート試験白紙撤回を要求して、C当局に対する追及を開始した。

④ 6月中旬から下旬にかけて、繰り返し団交をもつ中で、教官協議会の多くのメンバーは自己批判し、6月18日には教官協議会の執行部確認として「20日の教官協議会でレポート試験撤回を提案する」「その後、教官協議会とC闘の間で団交を行う」を得たが、結局20日の教官協議会は開かれず、C部長掲示によって18日の確認が一方的に取り消されるという裏切りがあった。

その後も団交を重ね、闘争破壊の自己批判と、レポート試験の成績凍結、育英会への抗議を勝ち取るが、それも成績提出期限を延長させただけに終わり、7月7日の団交は決裂し、7月9日に成績凍結は解除された。

⑤ C闘に結集する多くの学生は、「レポートを提出しなければ奨学金はストップする」という苦しい闘争の中で、あくまでレポート提出拒否、レポート自主管理を貫き、結果として、奨学金をストップさせられた者も多く出た。

 

6 京大闘争の展開―C闘争を中心に

 

(4) 中教審答申・大学立法粉砕闘争(5月~7月)

① 3月7日と4月30日に中教審答申中間報告が出される。

1つは「学生の地位」についてであり、「施設の利用者」として規定している。(これは奥田のいう「営造物理論」と同じである。)

学生を「施設の利用者」と規定することは、逆に学長を「施設の管理者」と規定することでもあり、これは大学の管理運営体制の整備=強化に通じるものである。

更にもう1つは、教育再編の方向として、研究と教育の機能分離、目的別大学化、大学院大学化などを打ち出したものである。これは教育の多様なコース別化、専門化の流れとしてとらえることができる。高度に発展した産業社会の要請する労働力商品を効率的に生産するために、教育過程の再編が意図されていると考えてよいだろう。

② 学生の「施設の利用者」規定は、まずもって大学を「施設=営造物」ととらえるところから誤っている。現実に果たしている機能とそれを現実的に保障する機構=制度として大学はとらえるべきで、単なる建物なのではない。あえて中教審が大学を施設ととらえ、奥田が営造物ととらえる意図は何か。それは、そこから「管理の強化」を導き出さんとするためであり、非常にイデオロギー的な無概念化といえるだろう。

又、教育の多様なコース別化、専門化という教育再編の方向は、大学を産業社会に向かって開かれたものにしようということである。このような教育の改編は、学生諸個人から、その人間の全面的発展への可能性を奪い、学生諸個人を一面的で奇形的な人間=労働力商品に仕上げるのである。

③ 4月21日、文部省次官通達「大学の要請がなくとも警察は大学構内に入ることが出来る」が出され、権力の露骨な大学闘争への介入が宣言される。

④ 5月23日、総長は退去命令を出し、機動隊が学内に乱入、学生部、C、L、Tなどの封鎖が解除され、多数の逮捕者が出る。当局は「要請しなかったのに警察が入った」と形だけは警察に抗議するが、退去命令を出せば、機動隊が入ることは当然予想でき、これは文部省次官通達の実質化に他ならない。

⑤ 5月、政府は「大学臨時措置法」案を国会に提出した。この法案は「紛争」大学における学長、副学長(学外者も含む)の権限の強化と、文部省・政府の大学介入を意図したもので、「紛争」の期間によって休校(休部)、廃校(廃部)までをも規定したものである。

⑥ この立法は、前年度の東大・日大闘争に始まり、この年全国に拡がった教育闘争に対する政府ブルジョワジーの恐怖の政治的表現とでもいうべきもので、明らかにそれらの闘争の収拾=圧殺を狙ったものであると同時に、中教審答申に見られる教育再編の方向を推し進めんと出されてきたものである。

大学闘争の収拾=圧殺という意味では、それは二重の仕方でかけられた攻撃である。まずそれは「自治」能力を失った大学当局に休校・廃校の恫喝をかけることにより、再度「自治」能力をよみがえらせ、自主的に「紛争」を「解決」=収拾させることを意図したものであること。そして次にそれでもだめなら、直接政府・文部省が介入して大学をとりつぶし「紛争」を収拾してしまおうというものである。

⑦ 5月にこの法案が国会に提出されるや、我々はただちに、その性格を見抜き、反撃を開始し、当局の収拾策動=立法の実質化と対決しつつ、国会包囲闘争などの立法化阻止闘争を5-7月の期間闘いぬいた、

 

7 京大闘争の展開―C闘争を中心に

 

(5) 時計台闘争(8月~9月)

① 8月3日、大学立法は強行採決の結果、成立した。

② 予期したごとく、この立法成立を機に各大学で一挙に闘争収拾の動きが活発化し、それは名目的には「政府の介入を招かないため」といいつつ、その実、国家権力=機動隊を導入しての、なりふりかまわぬ強権的な封鎖解除=闘争圧殺であった。

8月には、広島大、神戸大などで機動隊が導入され、封鎖が解除された。それは立法の当初からの狙いどうりだった。

京大でもそれは当然予想された。

③ 奥田総長は、1・25~27の団交の後、我々の前から姿を消し、一切の団交要求にも応じなかった。従って、この間当局のとった「事態収拾のための努力」の一切は、我々の要求を検討し、それにいかに答えるかということに払われた努力ではもちろんなく、いかに我々の闘争を圧殺するかに払われた努力であった。個別学部における「正常化」を後押ししつつ、全学的には5・23に退去命令を出し、機動隊を導入させて、封鎖を解除させた。しかし、そのような試みの全ては失敗に終わり、当局にとって残された道は、大学立法を機に「京大をつぶすな、京大を守れ」との下からの「秩序回復」運動を起こしつつ、その土台の上に、全面的に警察権力に依拠して、徹底して闘争を弾圧するという方法であった。

④ 7-8月は当局にとって下からの「秩序回復」運動のもりあがりを期待しての静観期であった。しかし、これも思うようにはもりあがらなかった。

⑤ 9月に入って「秋の学期を迎えるにあたって」というビラで、機動隊導入をにおわせつつ、収拾への決意を語り、全学の同意をえようとする。

しかし、奥田のやったのはそこまでで、下からの「秩序回復」運動ももりあがらないまま、機動隊導入を独断で決定せざるをえなかったのである。それは各部局において検討されなかったのはいうまでもなく、部局長会議においてすら、奥田が一方的に決意を語るのみで、充分審議されないまま決定されたのである。

⑥ そのようにして9月21日に学内に機動隊が導入された。

⑦ 我々の時計台闘争は、

当局の機動隊を導入しての力による闘争圧殺に抗議するものとして闘われた。

当局のこの行為は次の点において批判されるべきである。

(1)我々の要求、ならびに我々のつきつけた問題点に何ら答えることなく、闘争圧殺のみを目的としてなされたこと。

(2)我々学生にはもちろんのこと、学内の教官・職員など諸構成員間の討議に付されることなく、総長の独断で決定し、実行されたこと。

(3)それまで「大学の自治」を云々していた総長が機動隊導入を要請するという形で、全面的に国家権力に依拠したこと。

(4)そして大学立法との関連でいえば、「立法に反対」のポーズとは裏腹に、立法の真の狙いである個別大学における自主解決を強権的に実行することによって(=立法の実質化)、政府・文部省に全面的に屈服したこと。

 この点からいえば、時計台闘争は、大学立法粉砕闘争でもあったのである。立法成立以後の立法粉砕闘争は、個別大学における実質化を阻止していく闘いとしてあった。

我々時計台闘争の背景には、1月以来の京大闘争の全過程があった。

全過程における我々の道義性の上に立って時計台闘争は闘われた。

そのような意味で、闘いの場として、文部官僚が支配し、京大の全ての管理抑圧機構の中枢=時計台はふさわしかった。

と同時に、時計台闘争は、当局の闘争圧殺に対して抗議するあらゆる行動―医学部図書館闘争、街頭における闘い、退去命令に従わず建物に残って逮捕された農学部教官10名の闘い、などと連帯して闘われた。

 

8 京大闘争とは何かー総括にかえて

 

① 以上見てきたごとく、69年京大闘争とは、寮3項目要求を含む(「狂気の3日間」を自己批判し、その責任をとることを内容とする)8項目要求を基本的内容とするものだった。そこに京大闘争の起点があり、その8項目要求に対して当局が誠実に答えない限り、解決はありえないものだった。

(但し、個別各学部はその他にさまざまな要求を持っていた。)

② それに対して大学当局がとったのは、要求の検討―学生との交渉を基本とする解決の方向ではなく、力による闘争圧殺=収拾であった。それはある時は「全京大人」によって行われ、またある時は国家権力=機動隊の力をかりて行われた。

そこに2月以降の京大闘争の展開の原因があった。

③ 8項目要求、ならびに個別学部でのさまざまな要求を通して我々は何を問題としたか。

(それを考える時、それらの要求は当局に字面での承認を許さないものを含んでいたことがわかる。)

我々は、それを、国大協自主規制路線(粉砕)、産学協同路線(粉砕)という2つの言葉で表現していた。

④ 国大協自主規制路線とは、

62年の大管法流産以来の政府・文部省の大学支配の貫徹形態で、直接支配を隠蔽し、個別大学当局の「自主制」を表看板とする。

例えば、寮問題における○管規と「京大寮規程」との関連。実質的には同じものが「京大独自なもの」の外観をとってあらわれてきている。

過去、我々の闘争は、(寮闘争を含めて)国大協自主規制路線の壁にぶつかり、敗北してきた。

それは常に「大学の自治」の幻想をふりまきながら登場する。

69年京大闘争はそれとの対決を通して、その内容を暴露しつつ、闘われた。

⑤ 産学協同路線とは、

現在の教育・研究活動全体が、産業社会に従属(又は癒着)した形で行われている現実をさす。

研究という面では、それは一般的な「真理の探究」のために行われているのではなく、企業の利潤拡大に奉仕するために行われている。理工系の学部などでみられる企業からの委託研究などが典型だが、これは理工系の学部のみならず、文科系でも顕著にみられる。文学部における社会学、心理学の肥大は、企業内の人間関係をいかにスムーズに組織するかという研究においてなされているし、又経済学部における近代経済学、経営学の肥大は、生産性の増大、利潤の拡大を目的とした研究においてなされている。

現在の大学では、研究活動は「何のための研究か」が真剣に問われることなく、産業社会の要請を無批判にとり入れることによって成り立っているといってよい。

このことは教育の面でも然りである。大学を教育の面からみれば、高級労働力商品の生産の場ということができるが、どのような知識―技術を付与し、労働力商品として社会に送り出すかは、その時々の社会によって規定される。

このような高度に発達した産業社会に適合した教育・研究は、実は古い大学の講座制という機構を通して現在的には貫徹しており、また単位制、試験制という機構を通して、目に見えない強制として学生諸個人をかりたてる。つまり、学生の自己活動という外観をとった日常的な活動によって補完されながら貫徹しているのである。

京大での闘い、特に学部での闘争はそれらを暴露しつつ、闘われた。

⑥ 京大闘争は、以上のように、それまで大学闘争が問題としなかった「大学とは何か」「大学の自治とは何か」「学問・教育・研究とは何か」という根底的な問いかけを発した。

⑦ 京大闘争は、当局ならびに政府・文部省に対する闘いであると同時に、闘争に参加する一人一人の自己に対する闘いでもあった。諸個人に日常的な諸活動の一つ一つの点検と対象化を迫る闘いであった。

京大闘争が個別大学の闘争でありながら、以上の点で普遍的な質を有し、多くの他大学の闘い、その他の闘いと連帯しえたのである。

⑧ 69年京大闘争が、建物の占拠―封鎖という形態において闘われた(学部においてはストライキを背景として)のは、以上述べた京大闘争の質・内容に関わっている。

それは単に要求貫徹のための圧力手段=戦術としてとられたのではなかった。

(そういう面があったのは否定できない。当局の提示する「話し合い」の欺瞞性を暴露し、要求を有効につきつけていくにはそれしかなかった。)

それは、自己否定を含む、教育・研究の現在的なあり方そのものを否定することの表現だったのである。

 

附・1 時計台闘争においてとった我々の行動形態についての見解

①  火炎ビン、石などを投げたか否かということは、それだけを切り離して答えることはできない。

②  9月時計台―医学部図書館闘争は、街頭における闘争と共に、我々のかかげてきた要求に対して何ら答えることなく、強権的に国家権力機動隊を導入して一挙に闘争圧殺を行なおうとした大学当局に抗議するためにとった行動であり、

③  その際における火炎ビン等の使用は、国家権力機動隊の圧倒的な物力(人員―装備)をもってしての暴力的封鎖解除に対抗するために、なされたにすぎない。

④  従って、それは機動隊員個人個人を殺傷することを目的としたものではなく、あくまでも封鎖解除の阻止を目的としたものである。

⑤  また、実際機動隊は火炎ビン等に対しては消化設備、ネットなどを用意してきており、その点でも機動隊員が火炎ビン等によって死亡する客観的可能性はなかったといえる。

⑥  それは、検察側が提出している機動隊員の負傷状況をみてもわかる。火炎ビンで火だるまになって「死ぬかもわからないと思った」と証言している警官が、実は加療一週間であり、これは炎症(やけど)としては一番軽いものである。

⑦  にもかかわらず、検察側が我々を殺人(未遂)罪等で起訴しているのは、はなはだ不当であり、むしろ殺人(未遂)罪は機動隊員ならびに、それを導入した大学当局の方にこそ適用されるべきではないか。

 

附・2 機動隊による封鎖解除は如何にしてなされたか

①  約600発使用されたといわれる催涙弾は、塔内では至近距離から直撃を狙って発射され、また塔外からは小屋の窓の開いた時を狙って直接小屋の中に飛び込むように打ち込まれた。

直撃による負傷は幸い免れたが、塔内、小屋内における多数の催涙弾の使用により、我々は全員火傷を負い、後に病院にかかる者も出た。

(塔内では機動隊員の中にもこの催涙ガスによる火傷者がいるのではないか。)

②  放水車2台による東西からの小屋に向けての放水は常時なされ、仮設小屋内は、木と木の間から入る大量の水によって、さながら滝つぼのようであった。

③  21日の午前中、突如長さ20-30センチメートルの銃弾状の鉄の固まりが木の壁をぶちぬいて、小屋の中に飛び込んできた。それにはワイヤーがついており、それを引っ張ることによって小屋を引き倒すことを目論んだと思われる。我々の適切な措置によって事なきを得たが、これも直撃で誰かに当たっていたら死亡していただろうし、また、これによって屋上の小屋が倒されていたら、我々の中から相当の死傷者が出ていただろう。

④  21日から22日にかけて、夜中じゅう、断続的に放水がなされ、催涙弾が打ち込まれた。我々を眠らせないようにということだったのだろう。既に、21日の催涙ガスによる火傷の痛みも始まったこともあって、この夜はほとんど眠れなかった。

⑤  22日の午前11時頃、塔屋上に通じるハッチから大量の催涙ガスを屋上の小屋内に流し込み、我々がひるんだところを一挙に逮捕された。

  逮捕時の機動隊員の暴行はすさまじく、既に屋上に通じるハッチをめぐっての攻防の際に「殺してやる」と叫んでいた彼らは、逮捕時まず催涙弾銃をつきつけ、我々の両手を上げさせておいてから、銃身や台じりで我々をなぐりつけ、暴行を加えた。その際にショックで催涙弾が飛び出し、被逮捕者の近くをかすめるということもあった。

⑥ 逮捕後、下へ降ろされ、大ホールで多量の水をかけられた後、川端署へ連れていかれた。身につけていた衣類を押収された後、風呂に入れられ、新しい衣類が与えられた。東大闘争などで催涙ガスによる火傷が社会問題化している折、それに対する予防措置だったのだろう。しかし、私はその時点では既に風呂に痛くて入れないほど、火傷は表面化していた。

 その後、我々は別々の警察署に留置され、取調べを受けることになる。

私は松原署に留置される。その日から病院での治療を主張し、警察は完全黙秘を続ける私に対し「しゃべらなければ病院に連れていかない」と恫喝するが、翌日、更に炎症がひどくなるのを見るや、警察病院に連れて行く。患部は、左顔面上部、左右の足ももより下の部分、両手首など。(つまり着ていたビニールのコートよりはみ出た部分がやられている。)特に、左目の上がはれて、目をおおい、左目が見えなくなる。これは、時計塔屋上の小屋内で、21日催涙弾のパウダー状のものを左顔面に直接あびたためである。

 22日には、この炎症の他、背骨の痛み(これは催涙弾銃の台じりで背中をなぐられたためだが)などでほとんど眠れず。口の中は顔面を殴られたため数ヶ所切れていた。翌日以降は左足の炎症が特にひどいため、差し入れのトレーニングパンツを、左足のももより下の部分を切り落として着用し、取調べの時間以外は、房内に布団を持ち込み、昼間でも横になっている生活が続いた。

⑦  留置所内では、炎症のため一度も風呂に入れず、拘置所に移されて、初めてシャワーをあびることが出来た。このころには炎症は大分良くなっていたが、両足はひざより下が紫色に変色し、その中で特にひどい部分は白くなっていた。手首などはこの段階で、さかんに皮がむけていた。検事の取調べの際中、たいくつなので、手首の皮をむいていることが多かった。

⑧  その後保釈になった後も、2年間ほど、風呂に入ったあと、過去の炎症の跡がひりひりする状態が続いた。また、2年後位、催涙ガスのただよう中を通っただけで、過去の炎症の部分が、再度赤くなって皮がむけた。(=アレルギー性接触性皮膚炎)

                                   

以上

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