③あとがきにかえて(京大時計台裁判の10年第Ⅱ集より)

 1981年12月に発行した「京大時計台裁判の10年」第Ⅱ集の巻末に私が書いた文章です。


 

1 (第Ⅱ集発行にあたって)

第Ⅰ集を発行してから1年が過ぎ、秋も深まった11月末にやっと第Ⅱ集の発行にこぎつけることが出来ました。

第Ⅰ集の「あとがき」で、第Ⅱ集の発行を自らに課しながらも、とりあえず第Ⅰ集を出したことの安堵感と、裁判が確定し、執行猶予中という緊迫感の欠如が、第Ⅱ集の発行を遅らさせてしまいました。そしてそれに加えて、第Ⅰ集に保釈金の残額を注ぎ込み、多くの諸兄姉氏から第Ⅱ集のためのカンパを寄せられながらも、分量として第Ⅰ集の倍以上になる第Ⅱ集の発行費用としては、到底足りず、その事も第Ⅱ集発行を遅らせる原因となりました。

第Ⅱ集は予告通り「証言・京大闘争」としました。「裁判闘争の記録は同時に京大闘争の記録でもある」との基本的観点から「残す意味」を見出した私たちにとって、この第Ⅱ集の構成は必然でありました。

奥田東に対する反対尋問は、今から読み返しても非常に興味深いものがあります。おそらく反対尋問としては成功していないでしょう。しかし、尋問者(被告人)の技術的未熟さ故に、対立論点がはっきりし、奥田の「したたかさ」と彼らの「イデオロギー」は良く出ていると思われます。これも1つの「証言・京大闘争」なのです。

池田氏に始まり、田代氏に終る弁護側証人の証言は、田代氏を除いて、いずれも京大闘争の経過と意義を自らの置かれた位置から明らかにするものです。京大闘争を横の広がり(学部・学科・寮)と、縦の広がり(諸階層)において総体的に捉えようとする私たちの考えを、これらの証言は実証してくれるでしょう。京大闘争は、学生のみの闘いではなく、学内諸階層をも巻き込んだ闘争であったこと、各学部(学科・寮)ごとに個別的・具体的な内実を持っておりながら、同時に全体として普遍的な質を有していたこと、等を明らかにしてくれるでしょう。ただ文学部等の闘いを裁判の中で紹介できなかったのが、心残りと言えば心残りです。

紙数の関係で、被告人の本人尋問は割愛せざるをえませんでした。第Ⅰ集の「最終意見陳述」及び「京大闘争覚書」がそれに代わる役割を果たしてくれるでしょう。

 

2 (京大闘争―死について)

早いもので69年より12年が過ぎました。

この12年間を振り返る時、さまざまな思いが駆け巡ります。69年の京大闘争の日々、そして10年余りの裁判の日々、これらは生涯忘れえぬものとして、私たちの胸の中に刻み込まれています。そしてそれは単なる「思い出」としてではなく、生きる力=原点として現在でも生きつづけています。

12年の間に私たちは2人の被告人を失いました。辻敏明君と前田友広君です。彼らの死は党派の違いを超えて、共に時計台で闘ったという共同体験、共感をもつ故に、私たちに言いようのない悲しみをもたらしました。大学1年時代に学生服を着てタテ看を書いていた辻君の姿が今でも思い出されます。彼にとって京大時計台への立てこもりは、東大につづいての2度目であり、彼は69年を最も勇敢に闘った一人でした。彼は逮捕され勾留中に20歳を迎えました。

「9月22日時計台で逮捕されて2ヶ月近くなろうとしています。僕がこの室で、3食付無料の気楽な生活を送っている間にも世の中は刻々動いているようで、新聞を見るたび、闘いの記録に一喜一憂し、傍観的立場を強いられている自己の状態をうらめしく思っています。この目に見えるコンクリートの壁の中にいると、外にいても“目に見えぬ壁がある”と理論的には言われていてもやはり自分の行動で一歩一歩状況を切り開きうる喜びと、その逆の悲しみという生の感情がなつかしく思われます。最も、この獄中においても公判闘争を断固闘い抜く日が遠からずやってくると思いますが。」(辻君の外に宛てた手紙より)

前田君は時計台にたてこもった8名の内、唯一の他大学生でした。警察―検察は彼が他大学生であり、部落出身者であるということに目をつけ、彼に取調べを集中させました。彼は保釈後、部落解放運動―狭山差別裁判糾弾闘争に中心的にかかわるようになり、そういう中で、一女性と結婚し、子どもが生まれました。赤ちゃん連れで、奥さんがよく裁判の傍聴に来られていたのを思い出します。辻君の追悼の辞を法廷で述べて退廷させられた前田君も今はもうありません。

思えば、私たちは68-69年を、そしてそれ以降を常に死と背中合わせに生きてきたような気がします。機動隊との攻防戦、「内ゲバ」と呼ばれる党派闘争、多くの友人が傷つき、死にました。自殺者も含めて、「死」に様々な形態こそあれ、それらが「時代=状況の中の死」であることに変わりはありません。

そして現在があり、私たちは生き残りました。

 

3 (京大闘争―生について)

この12年間には、私たちをとりまく内外の情勢にも多大の変化がありました。大学内に目を向ければ、私たちが68-69年に予感として感じ取った「教育監獄」が今まさに現実の姿を見せています。目に見える管理強化と、そして「自己活動の外観をとった見えない強制」にかりたてられた学生諸個人が、学内をそれなりに「生き生きと」歩き回っている、そういう状況に大学はあると思います。一方世界を見れば、ベトナムー中国のその後の変遷は、私たちに失望を与えました。それは改めて私たちに、私たちの求めたあるべき姿は現実には世界のどこにも存在しないこと、それは他(外)に求めるのではなく、私たちの足下に創り出すべきものとしてあるということを再認識させてくれました。

69年の京大闘争の、いな全国の学生の闘いの重要な意義は、運動としての全共闘そしてバリケードによる封鎖・占拠にありました。単なる戦術ということを超えたバリケード、そして従来の「組織」という枠組を超えた全共闘運動は、権力との対峙関係の中で、闘争が目的とするような世界=人間関係を一時的、局地的、部分的であれ、実現し、その中で、諸個人が生き生きとした、諸個人が互いに手段化されることのない、諸個人が豊かになるような秩序が萌芽的であれ作られ、そういった中でもう一回教育といったことの本来的な意味が捉え直されるということがありました。

現象的に見れば、69年と断ち切れているかに見える現在にも、その「萌芽」は生き続けています。それは、今日の全国各地の様々な運動の中での、運動形態と、変革への意志として引き継がれています。

 

4 (様々な人々との出会い)

私たちは、この12年の間に、大学を出、様々な職業についてきました。ある者は医師となり、ある者は会社員となり、ある者は牛乳販売店を営み、ある者は組合書記となりました。ほとんどが京都を去り、全国各地に散る中で、一月に一回の裁判に京都―大阪に集まるということを繰り返してきました。最初通路を埋めるまでいた傍聴人の数も、公判を重ねるに従って減り、一人の大学教師と一人の友人を除けば家族だけが残りました。そして再び、一審終結間際には増え出し、判決時には外に溢れるほどの傍聴人が集まりました。そのような裁判―生活―地域、職場での活動の中で、私たちは、様々な人々との出会いを経験してきました。

驚いたことに、ほとんどあらゆる場で、私たちと同じ世代の、大学闘争を経験した人たちが頑張っている姿に触れました。そして更に驚くべきことには、それは当時の全共闘派と呼ばれた人たちばかりでなく、当時対立していた共産党系、体育会系の人たちが含まれていたことです。彼らはいつのまにか変わっていたのです。何年かを経て、当時対立していた人たちと今は志を同じくし、共に語り合う機会を持てるということの中に、68-69年の大学闘争の影響力の大きさを見る思いがします。

 

5 (いくつかの手紙)

私たちは、裁判継続中に、あるいは裁判終了後に私たちの書いたものを友人・知人に送りました。そして、カンパと共に多くの返事を貰いました。その内からいくつかを紹介します。

 

第一の手紙(判決以前のもの)

「お便りと資料をどうも有難うございました。いよいよ9月25日が迫ってきましたね。ビラにある通り判決が厳しいものになるだろうということは、今の司法界の反動化のひどさからみて間違いないようですね。被告の皆さんは覚悟しておられるでしょうが、

当時他大学であったとはいえ、同じような局面でなにもなしえず、学生諸君が権力の手にわたるのを傍観していた教師としては、胸が痛む思いです。

それにしても8年4ヶ月とは長い、あまりにも長すぎる、という感じを強くします。青春のもっとも貴重な時期を被告という座に強いられ、有形無形の社会的差別と抑圧を甘受せねばならないだけでも、不当きわまることなのに、この上実刑判決ということになれば、前科といういやな烙印を押され、一生その重荷を負ってゆかねばならないのですから、覚悟しているとはいっても、つらいことだと思います。しかし、日大全共闘の諸君にしても同じような境遇でしょうが、意外とケロリとして、たくましく新しい生活を拓り開いていっているのを見て、やや救われる思いがします。

あなたたちの書かれた文はいずれも読みやすく、論理が一貫していて、さわやかな後味を残してくれました。このような作風が運動の全体のものになっていれば、もう少しその後の展開の仕方もましな方へむかっていっただろうにという気がします。京大に来ていわゆる全共闘系のビラというのはもっと観念的ないし情念的で、えらく難解な文体が多かったという印象があります。これは闘争の段階が違うせいかもしれませんが。

いずれにせよ、あなたたちが立ち向かった大学制度、そしてあなたたちを裁くという形で圧殺しつつある裁判制度というものへ、腹の底から怒りを覚えます。しかも自分がいまだ思い切り悪くその制度の末端に連なっているのですから、じつに恰好が悪い。しかしぼくはこの恰好の悪さに耐えてゆかねばならないと思います。あなたたちのやったことの意味を後からくる若い人々に少しでも伝えるために。

  ではご健闘を祈ります。さようなら。」

                               1978・9・21(広島・K)

 

第二の手紙

「裁判闘争の記録、送付していただき、ほんとうにありがとう。たいへんな苦労だったと思います。何の協力もできず、申し訳ありませんでした。

受領してからしばらく読む時間がなく、今日やっと読了しました。読むための心の準備がなかなかできなかったというべきでしょうか。

いろいろな思いがあります。10年余にわたって、京大闘争を「引きずらざるをえなかった」諸兄と、自分なりの総括と表現で、あの数年間との断絶だけはすまいとだけ意思した自分との距離は否定できません。わずかな角度の違いで描かれた軌道も、10年の時間はかなりの開きになってしまう。それは確かです。

すくなくとも、あの数年間を懐旧する人々とは、徹底して離れてきました。当時の仲間の消息を楽しむ談笑とも、縁を切ってきました。だからといって、透徹した抽象化が進めえたとは恥ずかしくていえません。

ひとつだけ、組織の問題にはこだわり続けてきたのだ、と思っています。

政治状況と権力の前でつねに自壊を宿命づけられたかに見えた「組織」について、その諸悪の排除について。

誰にも支配されず、従属しない「組織」について、自分なりに実践的に討究してきたと思っています。

            (中略)

東京の日々は人工的に快適です。人間的なところで、自分の鈍感さに驚くことがあります。もともと、自分を取り巻く諸要件について、捨象していく性癖が強いようです。

その意味で、このドキュメントはすごく有難い存在です。ここまで情緒的な契機を抑えられるのは大変なことです。10年の重みが伝わってきます。ほんとうに有難う。」

                              1980・11・23(東京・Y)

  

第三の手紙

「いつの間にやら、京都を離れて半年余りが過ぎ、こちらのナマリにも慣れてきた自分を顧みて、少々感傷的な思いに浸る暇もあらばこそ、毎日の仕事にせきたてられて、物も考えられないような生活を繰り返しています。

            (中略)

宇都宮の人間関係は、人とつきあうのが職業であるだけに京都でのように、のめりこむことも、安らぐこともできません。

非常に良くできた仮面をいかにうまくかぶったまま暮らしていけるか。それがこういう商売をやっている者のテーマです。本音を見せずに生活し、動き回り、その上で得たものを本音にできるだけ反さない形で文章にすること。難しいことです。どうしても情報収集のためには、倫理も節操もなくていいんだ、という方向に流されがち。内部に秘しているはずの本音がふたを開けてみたら、いつの間にか灰になっていたーなどという恐ろしい事態に陥らぬよう、自戒の日々であります。

さて、「京大時計台裁判の10年」、完成おめでとうございます。早速送ってもらったのに、反応がこんなに遅れたことをおわびします。読みながら、京都地裁や大阪高裁での公判の様子を思い浮かべ、少々、不謹慎ですが、当時はオモシロカッタという感情がまっ先に湧きました。

次いで、川端通り沿いの飲み屋で、池田(浩士)先生と3人で飲んだ時、池田さんが、「時計台に上がる前、自分の未来などを考慮に入れて、どう思っていたのですか。」と尋ね、片見さんが「逮捕された上に、その後裁判闘争に関わっていくというコースをすでに見定めていました。」と答えた、あのやりとりを思い出しました。

自分の路線を見定めていなかった僕にとって、あのやりとりは驚きでしたし、現在でもそうです。今の僕は、いまだに、何も見定めていない、見限ってもいない。

開き直るのでもなく、かといって大胆にドロップアウトするのでもなく、中途半端なまま、やっと平衡を保っているところだ。

            (中略)

明朝も、また県警本部へ行って事件や事故の記事を書かなくてはなりません。警察官に囲まれると相変わらず恐い。毎日が恐怖と同居しての日々―因果応報です。

では、皆によろしく。第2集の編集、頑張って下さい。

                        1980・11・5 (宇都宮・H)

 

第四の手紙

「シコシコと“時計台裁判の10年”を読んでいます。車でバイパスをすっとばして“デニーズ”という外食レストランへ行って、何杯でもアメリカンコーヒーをおかわりしてもらって読んでいます。昼間だと群馬の誇る榛名山、赤城山などが窓ごしに見えます。関東のハズレだから見られる風景だなあ・・・とつくづく思います。

最終陳述を読んでいて、10年間の意味みたいなことを考えました。今年の3月頃よく「10年後にどんな仕事をやるか・・・」「やっているか」「やったか」ということを話していました。今、上司たちから「君は10年後どんな仕事をやっているか」ということをよく言われます。2人目に陳述した高橋さんの意見が、私にはものすごくよく思いました。なんとなく私の今の気持ちを代弁してくれているような気がします。時計台裁判の意味づけ、位置づけとは少しズレている感想だと思いますけれども・・・。みんなそれなりに大学を出て行って、その後の10年間にどんなことを感じ、呼吸していくのかなあ。いろんな人にたずねていってみたい気がします。

                              1980・10・27(高崎・F)

 

6 (もう一つの手紙)

何年か前に東大の最後の組の実刑判決が確定し、私たちの裁判が、69年の大学闘争の裁判の中で「おそらく最も長い」と思っていました。ところが、最近、ふとしたきっかけで、いまだ続いている裁判があることを知りました。

 

第五の手紙

「秋晴れのさわやかな毎日が続いています。

カンパ二アの夏も終わり、闘いの心を磨ぎすますによい季節となりました。いかがお暮らしですか。

合宿から早くも2ヶ月ほどたちました。思いもかけずお会いすることができた驚きと、10年を越えて闘いを同じにしていたという感慨があります。合宿も私自身にとって充分有意義なものでしたが、片見さんが“あのときの片見さん”だったと知り得たこともうれしいことでした。

早速に「時計台裁判の10年」を送っていただきありがとうございました。広げると京大闘争の熱い日々が私にも伝わってくるようであり、丁寧で簡潔な整理に教えられるものがあります。身近な友人達の評判(?)も上々です。

すぐにもお礼のお手紙と思いながら、元来のなまけ者なのと私たちの機関紙のバックナンバーを揃えるのに少々時間がかかったのとで、こんなにおそくなってしまいました。

「噴炎」はその時々の通信で未整理でもありますが、被告団内のつながりや、支援者との交流に号を重ねる毎にバラエティに富んだものとはなりました。

いただいたものと差し換えるほどのものではありませんが、九大裁判闘争の軌跡について、被告団活動の流れについておわかりいただけるのではないかと思います。お忙しい毎日とは思いますが、お暇な折にでもお読みいただければと。

二審判決は実刑5名の中一人だけ執行猶予が付き、他は一審通りの厳しいものでした。予想したこととは言え、3年の下獄や、5年の猶予という権力の報復に怒りを抑えることができません。全員上告をしましたが、来春にも結果は出るでしょう。現在、公判報告の通信づくりと、一、二審を通した総括の作業に追われています。そういう局面です。

              (後略)

とりあえず、お礼と報告まで。」

                        1981・10・12(福岡・K) 

 

7 (最後に)

69年に闘われた全国の大学の死守闘争の裁判が、ほとんど実刑になっているのに比し、殺人未遂という重罪がついていたにもかかわらず、全員執行猶予という結果に終った私たちの裁判は恵まれていたと言わざるをえません。

その意味で、下獄を免れた私たちの残された仕事は多いと思います。

この記録の編纂作業もその一つでした。

2集目の編集・校正を終えて今ホットしています。

しかし、まだまだ私たちを含めて、69年を闘った人たちの言葉は重く、表現化されていません。

あとに続く世代へ、どれだけメッセージを残せるかが今後の課題でしょう。

最後に、短いものですが、同世代から寄せられた手紙を引用します。

 

第六の手紙

「過ぎゆくものと変わらないもの。何ごとかへの執着が新しいものを生み出す力になるだろうと信じています。また、会いたいですね。」

                       1980・11・9 (東京・H)

 

10年余にわたる私たちの裁判の弁護にたずさわっていただいた諸先生方に感謝いたします。

 

 第一審弁護団   崎 間 昌一郎 (京都)氏

          佐 伯 千 仞 (大阪)氏

          青 木 英五郎 (大阪・死去)氏

 

 第二審弁護団   崎 間 昌一郎 (京都)氏

          佐 伯 千 仞 (大阪)氏

          下 村 忠 利 (大阪)氏

 

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