忘れえぬ人々(その7 高倉 健)

1931.2.16-2014.11.10 享年83才 福岡出身の俳優 代表作に「網走番外地シリーズ」「任侠客シリーズ」「鉄道員」「幸福の黄色いハンカチ」などがある


 

1 私と「健さん」・・・・?

   この「忘れえぬ人々」の中に「高倉健」がいるのを知って、何人かの人が私に尋ねてきた。「片見さんと高倉健というのはちょっと考えられない組み合せだけど、2人の間に何があったの?」と。それに対して私はこう答えることにしていた。「私が撮影所に通っている頃に知り合って、映画で共演したこともあるんだよ。」と。この答えは決して間違ってはいない。私は下宿当時、エキストラや小道具のアルバイトとして京都太秦にある東映撮影所、大映撮影所に通っていたのは事実だし、東映の撮影所で「健さん」は主役として、私はエキストラとして共演したこともあることも事実だからである。

2 私が京大に入ったのは1968年4月であるが、大学では寮生活をしていた。熊野寮という比較的新しいコンクリートの寮で、寮費が安く(月額数百円程度)、京都に知り合いのいない私にとって、いろいろな意味で寮は生活するのに便利なところであった。その1つがアルバイト紹介であった。学生の場合、アルバイト先を見つけるのは、学生部の建物の中の「アルバイト募集」の張り紙を見て、それに応募するのが一般的な方法であるが、学生部から紹介で受けるアルバイトは倍率が高く、応募しても中々あたらない、というのが普通であった。
 それに対して、寮に来るアルバイトは、多様な職種のものが毎日のように電話で募集があった。例えば「~日の~祭にアルバイト10名」という連絡があると、寮ではすぐに放送を流し、集まったひとが10名を超えるとその場でじゃんけんで即決するのである。そのようなバイトの1つに、撮影所のアルバイトがあったのである。 大映が東映の撮影所から「何名のエキストラがいるからタクシーで来てくれ」と連絡があると、すぐとんで行くのである。1日1000円(弁当付)というバイト代で交通費(タクシー代)はもちろん出してくれた。
 このバイトは私にとって中々楽しく、何回も行くことになった。大学1回生の時の話しである。撮影所通いが頻繁になる中、撮影所の人に目をつけられ小道具係までやることになった。(俳優に誘われなかったのが残念であるが)注文のあった小道具をスタジオまで運ぶ役で、場合によってはない小道具を作ったりもした。

3 そんなある日、東映の撮影所である出来事が起った。、
 私が小道具を持って行ったスタジオで、撮影シーンを見ていると、後ろから声をかけてくる人がいたのである。それが「健さん」だった。「ご苦労さん」とか「お疲れさん」という言葉だったと思うが、私の周りには人はおらず、私に声をかけてくれたとしか思えず、振り返った私の目に写った姿が思いがけず「健さん」だったことから、私は固まってしまい、言葉すら返すことができなかった。
 そんな私の対応に「健さん」はニコっと笑いながら対応してくれたが、そんな「健さん」の偉ぶらない回りの人への気遣い、優しさが印象に残った。

4 その後「健さん」の出演シーンを見ていたが、2シーンで驚くべきことが起った。
その映画は、いわゆる東映の「任侠シリーズ」1作で、高倉健が主役で脇役が売出し中の菅原文太というものだった。いつものパターン通り、「健さん」が我慢に我慢を重ねたうえ、最後は一人で長ドスを持って相手方組事務所に殴り込みに行くのだが、そこに途中から菅原文太が加わり、2人になるのである。これもいつものパターンで加わる助っ人は鶴田浩二だったり、池辺良だったりする。いわばこの映画のクライマックスをその日撮影していたわけである。

 (1)驚いたのは、いわゆる殺陣である。殴り込んだ「健さん」と「文太」が長ドスを抜いて、相手方組合員多数と殺陣回りを演じるのだが、これには殺陣師という役割の人がいて、この人が指導するのである。切られる方も大部屋の俳優で、切られる方も難しい。素人では出来ないのである。「文太」は本番まで何回も何回も殺陣師の指導を受け、練習を繰り返していた。ところが、「健さん」は腕組みをしているだけで、殺陣師が「それじゃあお願いします。」と声をかけると、いきなり本番なのである。そして、その本番たるや、流れるような殺陣回りだけでなく、片肌を脱いで斜めにかまえた例のポーズにピタット決るのである。何たるカンのよさというか、運動神経の良さというか、これは俳優を超えていると思った。

 (2) もう1つびっくりしたことが生じる。ドスでは対抗できないと知った相手方が今度はピストルを持ち出し、「健さん」らに発砲するのだが、その避け方である。「文太」「健さん」の順で討たれるのであるが、渡り廊下みたいな所で討たれ、それを避けて窓越しに庭に逃げるというシーンなのだが、「文太」は何回も練習した挙句、撮影したのは窓から上半身を乗り出すシーンまでだった。そこまで撮ればあとは編集でどうとでもなるのであろう。ところが「健さん」になると、またもやいきなり本番でそれだけでなく、「健さん」は窓から身を乗り出すことでやめることなく、窓に上半身から飛び込み、そのまま、ダイビングするようにして庭で一回転したのである。私はそれを見ていて、大丈夫かいなと思い庭の方を見ると、そこにはマットが敷いてあり、怪我をしないようになっていてホッとしたが、そこまでやる思い切りのよさというか、マットを転がるシーンなど、写るはずはないのであるが、映らない部分まで真剣に取り組む「健さん」の演技に感心した。

5 全共闘と「健さん」

  良く「健さん」は全共闘に人気があったと言われる。1968-69年の全共闘運動の盛り上がりの時期と「健さん」の任侠シリーズのピークが重なることもあって、そういうことがいわれるのだろう。実際、私もバリケードの中から「京一会館」という「健さん」映画の3本立てをやる映画館によく通ったものである。京大から北へ歩いて15分位の所にあるその映画館は、昔ながらの古い映画館で料金が安く、興業主が変わった人で、自分の趣味のものを3本立ててやるので学生に人気があった。その映画館の付近は狭い飲食街で、映画を3本見て、ビールでギョーザを食べて、全部で500円を少し超える値段で済んだというから今から考えれば信じられない話しである。「健さん」というのは思想的には全く異なるが、力関係で言えば圧倒的に不利である敵(全共闘で言えば国家権力=機動隊)、健さんでいえば、相手方である大きな組事務所)に単独でも立ち向かうその姿に全共闘は共感を覚えたのであろう。「健さんシリーズ」の基底にある「義理と人情」というのも、全共闘はあまり意識していなかったが、あったかもしれない。
 全共闘といっても色々な人(党派)がおり、多少「健さん」への親近度が異なるかも知れない。左翼でも反全共闘でもある日本共産党系の学生は「健さん」の映画など「ヤクザ映画」と切り捨てるであろうし、新左翼と言っても革マルなどは理屈っぽいところがあるから、どちらかというと「健さん」の映画を評価していなかったと思う。「健さん」の映画が一番好きだったのは、いわゆるノンセクト・ラジカルと呼ばれる無党派の人たちである。全共闘肉体派とも呼ばれるその人たちは、もともと理屈で動いているのではなく、自分の感性を大事にし、直感的に動いているから、「健さん」の行動にピタっとするのである。私見あるが私が属した反帝学評(青ヘル)もこのインセクト・ラジカルに近く「健さん」が好きな人が多かったというか、「健さん」みたいな人がたくさんいたように思う。

6 私にとっての「健さん」
 友人とか同志とか言った間柄で、親近感とか新密度は、必ずしもつきあった期間の長さに比例するものではないような気がする。極論を言えば、瞬間的出会いが一生の印象に残るような思い出になることもあるのである。私にとって「健さん」とはそのような人であった。
 もちろん、撮影所での前記出来事だけでなく、その前後に「健さんの映画を数多く見ていることが相互にあいまって私に強烈な印象を残したのであろう。単なる映画ファンを通した関係ではなく、多少でも「健さん」の生身の人間の部分を知ったが故に、「健さん」は私にとって他の人とはちょっと異なる「忘れえぬ人」なのである。  


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