忘れえぬ人々(その6 片見ふじ)

明治42年(1909年)7月17日~平成6年(1994年)11月21日

 享年85歳

 


1 片見ふじ、名前の通り私の母である。私の「冨士夫」と言う名前は母の「ふじ」に夫を加えて付けられた。当初はなんて安易な名前の付けかたかと思った時もあったが、成長してからは、母の名を継いでいることに誇りを感じるようになり、自分の名前が好きになった。

 

2 母は、明治42年7月17日に茨城県筑波郡福岡村(後に「谷和原村」となる。)

 で、父片見兵衛、母せつの長女として生まれた。

  せつさん(私にとっての祖母)は、母を生んだ後、9人の子を生んでいるから、母は10人兄弟の一番上の長女ということになるわけである。せつさんというのは私も覚えているが、体が小さい人で、今から考えれば、良く10人も子どもを生んで、育てたものである。体が丈夫だったのか、昭和43年2月1日まで生きた。

  母の弟、妹の内、早くに亡くなった人を除いて、秀夫、武夫、津称子(つねこ)、哲夫の4人は私も良く覚えている。一番下の哲夫さんがせつさんと一緒に暮らし、家を継いだ。その家が母の実家ということで、夏休みなど毎年遊びに行った。そこが私にとっての「田舎」にあたり、川遊び、魚釣りなど子どものころの楽しい思い出が一杯残っている。ちなみに祖父の兵衛という人は昭和26年4月12日に亡くなっており、私の記憶には全くない。

 

3 母の経歴については、詳しくは聞かされていないが、高等女学校を出てからは、働いていたようで、郵政省で働いていたことがあるようなことを聞いた覚えがある。

  長女として、次々に生まれる弟や妹の面倒をみながら、早くから働いて家計を助けていたのであろう。

  いつ東京に出たのか、どのようにして父(小高桂太郎)と結婚することになったか、そのいきさつは私は知らない。昔のことであるから、誰かの紹介で見合い結婚をしたのであろう。結婚は昭和8年12月9日のことで、母が24歳のときである。

 

4 父の小高桂太郎という人は、明治40年2月13日に長崎で生まれている。母より2歳年上である。戸籍上の母は小高コヨになっているが(父欄の記載はない)、後に聞いた話では、父はコヨが生んだ子ではなく、コヨの夫(籍には入っていない)が女中(岩崎ミツ、この人については後に又ふれる。)に生ませた子を、コヨに子どもが出来なかったことから、コヨの子として届け、育てられたようである。

  コヨと父は、長崎から大阪(北区)に移り、大阪で母との結婚が届けられ(大阪に母が実際に住んだかは私は知らない。)、その後東京の麻布に移った。その麻布で昭和12年10月20日私の姉・康子が生まれ、昭和19年1月5日私の兄・弘道が生まれている。

 

5 コヨという人は、茶道と華道の先生で、それらを教えることによって生計をたてていた。母にとって姑にあたるこのコヨは、大変厳しい人であったようで、母も苦労したと思うが、この人に茶道と華道を教わることによって、その後その道で身を立てることができたことは感謝しているということを母から聞いたことがある。姉は、このコヨに可愛がられたようで、小さい頃から、茶道を教わったようである。

  戦争で、東京が空襲にあうようになり、母たちは父の勤め先(日立兵器)の関係で茨城の日立という所に疎開したが、そこは海に近く、軍需工場などがあったこともあって、海からの艦砲射撃が頻繁にあり、恐かったという話を聞いたことがある。何のための疎開かわからない話である。また、その疎開中に、姉が重い荷物を積んだ馬車にひかれ、大怪我をしたことがあったらしい。

 

6 昭和20年8月に終戦を迎えるが、母たちは麻布の家が空襲で燃えてしまったためか、戦後目黒の下目黒というところに移り、そこで昭和23年4月17日に私が生まれた。(コヨは昭和22年11月10日下目黒で死亡している。)

  私の誕生については、いくつかのエピソードがある。1つは、当時トイレは汲み取り式(いわゆるぼっとん便所)だったが、そこに私を落としそうになったことがあったらしい。母が臨月のとき、トイレに行き、力んだら私がするっと出そうになったらしい。母は急いで力むのを止め、すんでのところで私が便壷に落ちるのは防げたらしいが、その時落ちていれば、その後の私は存在しなかったかもしれない。

  2つは、当時母と父の関係がまずくなっており、母は父の子をもうこれ以上生みたくなかったらしい。そこで堕ろすことも考えたが、最後の子として生んでくれた。

 このように、私がこの世に生をうけるについては、当初から生死の境を渡るような面があった。

 

7 私が生まれた翌年に母たちは東京の荒川区南千住というところに引越ししている。

 コヨが死に、もう下目黒にいる理由がなくなったということだろうか。弟(秀夫)らのいる近くに越した。麻布、目黒の家はいずれも借家だったようで、当時の東京は借家が一杯あり、望みの家がどこでも借りられたようである。私が生まれた目黒の家というのを一回見ておきたくて、大きくなってから母、姉と見にいったことがある。母や姉の記憶を頼りにたどり着いたところは、坂道に面したところで、大きな家ではなかったが、静かな環境の中にたたずんでいた。

 

8 南千住に越した時のメンバーは、母、父、姉、兄、私の5人ともう一人いた。前にも述べた、お手伝いの岩崎ミツというひとである。ミツさんは、戸籍上は異なるが、父の生みの母で、私と血の繋がった祖母であった。そのことはミツさんが亡くなった後に母から聞いて初めて知った。ミツさんは父が長崎にいたころから、一緒におり、その後大阪、麻布、目黒、南千住と行動を共にした。南千住では、昼、夜働く母の代わりに幼い私の面倒を見てくれていた。ミツさんの夫という人が戦死していたようで、その遺族年金を貰っていた。その年金を受け取るために役所に行く時はいつも私を連れていき、帰りにおでんと茶飯を食べさせてくれた。私もそれが楽しみで、毎回喜んで付いて行った。

  ミツさんは、私が少学3年の時、南千住の家で死んだ。死ぬ何ヶ月か前であろうか、私と2人になったとき、私を見て、「大きくなるのを見ることができて本当によかった。」と言っていた。その時は意味がわからなかったが、後で考えれば、実の孫の成長を近くにいて見ることができ、うれしかったということであろう。当時の私は何もわからず、祖母の愛情に答える言葉のひとつもかけてあげられなかったのが残念である。

 

9 父と母は、南千住に越した年(昭和24年)の7月29日に協議離婚している。私が生まれた約1年3ヶ月後である。父は軍事産業に務めていたことから、敗戦と同時に職を失い、戦後はあまり家に寄り付かず、家に帰ってきたときは、家にある何か金目の物を持ち出していたようである。そんな父であったから、母は離婚を考えていたようであるが、決定的だったのは、南千住の家を購入するお金を、父が使い込んだことだったらしい。母としては、家の売買代金は支払われていると思っていたところ、お金を託された父が支払っておらず、その債務を母は長期間の分割弁済で返さざるを得なかった。

  母が頼るべき者は自分しかいないと思うようになったのは、この時かららしい。家の売買代金が支払われてないとわかり、途方にくれていた時に、兄弟を含め回りの人は誰も助けてくれなかった。全て自分の力で解決せざるを得なかったのである。

 それから、母の奮闘が始まる。私が物心ついてからの母の一日は、昼間は小学校の給食の仕事をし、夕方家に帰ってからは、夜自宅で茶道と華道を教えていた。一日フル回転で休むまもなく、働きずくめであったが、体が丈夫だったこともあり、病に伏せったこともなく、体がしんどいとか、体が疲れたとかの愚痴を聞いたことも無い。子どもを含め、家族にあたることもなく、私が覚えている限り、母に怒られたということもなかった。

 

10 父母の離婚と父のことについてもう少しふれたい。
私の記憶の中に、父母の離婚式のありさまがある。親戚が皆南千住の我が家に集

  まり、母方を代表して秀夫叔父が、皆の前でかしこまる父に対して、母との離婚を申し渡すのである。私は3歳位で、母の隣にちょこんと坐っている。このような光景が、いつのころからか私の記憶の中に定着し、私はずーっとこのようなことが実際にあったと思っていた。ところが、大きくなって、父母の戸籍などを調べると、離婚は昭和24年7月29日で、私は1歳と3ヶ月位である。この年齢での記憶がありうるのか不思議である。一般的には離婚式というのも聞いたことはなく、実際には私の夢の中での出来事だったのかもしれない。

  私には、父に関する記憶というものは、先の離婚式を除いて全く無い。1歳3ヶ月の時に離婚して、それ以降会っていなければ、当然のことであろう。我が家には、父の写真も残っていなかった。いや、正確に言うと、父も含めた家族写真はあるのだが、母が父の顔のところは全て黒く塗りつぶしていたので、父の写真はないのと同じなのである。全ての写真の顔の部分を黒くつぶすなど、母の父に対するうらみがどれほど大きかったかを示すエピソードであろう。

  私が大きくなって、父というものを意識しだし、どんな人間だったのだろうか気になって、母の弟の武夫叔父に父のことを聞いたことがある。武夫叔父は、母たちが南千住に越したあと、家族でその家に越してきて、同居していたことがある。その後武夫叔父も離婚し、妻子を残して(妻子はその後も私たちと同居)、自分だけ家を出て、その後大阪で再婚し、私が弁護士になったあと、私に会いにきて、再会した。その時に父のことを聞いたのである。武夫叔父は父と親しかったらしく、父のことを決して悪く言わなかった。「あの人は天性の自由人だった。」「頭の良い人だった。」「顔や性格は子どもの中では君に一番似ていると思うよ。」そのような事を聞いて、私の頭の中になんとなく父のイメージが出来た。戦後の混乱期の中で、自分の生き方は模索できても、家族を守るというような行動はできなかったのであろう。

  父は、昭和46年3月24日神奈川県川崎市で死亡している。いわば行き倒れのような状態の死であったのだろう。全国を放浪し、最後は川崎で死んだらしい。64歳であった。警察から連絡を受けた母は遺骨を取りに行かず、兄が行き、遺骨を池袋のお寺に納めた。その寺にはコヨの墓があり、父の生みの母の岩崎ミツもそこに入っている。

  その寺、お墓には、私も何回か母に連れられて行ったことがあるが、小高コヨの墓の隣にコヨが建立した木村長門守の墓がある。木村長門守とは、大阪の陣で徳川方に対抗して豊臣秀頼側についた四天王の一人で、真田幸村ほどではないが評判のよい著名な人物である。私は、最初にその墓を見たとき、コヨと木村長門守の関係がわからなかったが、古い戸籍をたどるとコヨの父は木村幸四郎となっており、おそらく先祖が木村長門守なのであろう。

 

11  幼少時代の私は、昼間はミツさんと一緒だったが、夜寝る時は、母の隣だった。
末っ子で一番小さいのだから、そのようになるだろう。冬などは、母の足は暖かく、そこに自分の足をくっつけて寝ていた。私を寝かしつけるために母が歌ってくれた子守唄を今でも覚えている。

      ねんねこしゃっしゃりませ、寝た子のかわいさ

      起きて泣く子のつらにくさ、ねんころろ

  どこの地方の子守唄であろうか。やはり、茨城地方で伝わる子守唄であろうか。今歌詞を見ても、なんともおかしい歌詞である。これを歌ってくれると間もなく寝てしまうという不思議な歌である。

 また、母は時間のある時は、寝物語をよく聞かせてくれた。その物語は、筋はいつも同じなのだが、少年が虎に飲み込まれ、虎の腹の中でも尚生き、虎に育てられ、色々な冒険をする話である。日本の民話の中には、このような話はなく、母はどこでこの話を仕込んだのであろうか。私はその話を聞くのが楽しみで、いつもドキドキしながら聞いていた。

 

12 母と行動した記憶で一番古いものは、私が3歳のころ、母に連れられて母の茨城の実家に行った時のことである。列車で最寄の駅(水海道)まで行き、そこからタクシーに乗ったが、大雨で道がぬかるんでいて、実家までは行ってくれず、途中で降ろされて、雨の中を二人で歩いた。田舎の道だから、道は悪いし、夜の真っ暗な中を歩いたのだから非常にしんどかった。だから記憶に残っているのであるが、何のためにその時母と二人で実家に行ったのかはずっとわからなかった。哲夫叔父の結婚式だったのかとも思っていたが、結婚式にそんな夜中に急遽行くわけもなく、今回この文章を書いている中で、母の父兵衛が亡くなったのが、昭和26年4月12日だと知り、これだと思った。兵衛の死の連絡を受け、急遽夜中に私だけを連れて、実家に向かったのであろう。

 

13  幼少から小学校にかけて母と一緒に行動した思い出はたくさんある。印象的なものだけいくつかとりあげてみる。

 

①   母は休みの日に、デパートに行くのが好きであった。行くのは浅草にある松屋というところで、何を買うという目的があるわけでもなく、ほとんどがただブラブラと見て回るウインドーショッピングであった。いつも私を連れて行った。子どもとしては、親のそのような行動につきあうのは大変なのだが、このデパート行きには、最後にご褒美がついていて、それが目的で付いて行った。そのご褒美とは「セキネ」という店でソフトクリームを食べることで、当時の私にとって、世の中にこんなおいしいものがあるのかと思うくらいのご馳走であった。

②   母は前にも述べたが、荒川区の小学校の給食の仕事をしていた。地方公務員になるわけだが、その荒川区の職員に対して、福利厚生として、夏の海の家を無料で利用できることと、松竹歌劇団のショーと映画への招待があった。松竹歌劇団のショーは子どもにとっては、それほど興味のあるものではなかったが、夏の海の家は毎年楽しみだった。京成電車に乗って、千葉の稲毛とか黒砂という海岸で潮干狩りをするのである。その辺は、今では埋め立てられてしまっているが、当時は遠浅の海岸として、潮干狩りをするのに最適の場所だった。潮が引いたときに沖まで行き、アサリやハマグリをとった。潮溜まりにはカレイがいたり、深いところにはイルカが泳いでいることもあった。潮が引いている時に沖まで行ったが、帰りは潮が満ちて、私ら子どもには背が立たないこともあった。そのような時は母につかまって海岸まで戻った。母は泳げるわけではないが、どっしりとした体格で海の中でも安定感があった。その母につかまって海の中を進むのが私は好きであった。母は海に入る時、水着などは着ず、下着(シミーズ)のままだった。子ども心に母のそのような姿は恥ずかしかったが、当時はそんな格好のおばさんがけっこういたのである。

  海の家では、家から持ってきたおにぎりを食べ、海の家で買った冷えたスイカなどを食べた。夏休みの一日をこのように過ごすことが毎年の恒例であり、当時娯楽が少ない中で、私の楽しみの一つであった。

③   当時の夏休みの過ごし方で、もう一つ楽しかったのは、泊りがけで母の実家(田舎)へ行ったことである。お盆の墓参りを兼ねて2泊3日くらいで田舎へ行くのである。母の家族だけではなく、大体同じ日程で兄弟の家族が集まるから全体で20名を超える位の人数が集まり、その中には私と同世代の子もいたから、皆で遊ぶことができるのが楽しかったのである。遊びの中心は川遊びで、泳いだり、魚釣りをしたりした。田舎は、利根川の支流の小貝川流域で、田への用水路が走り、川遊びをするのに最適の場所だった。哲夫叔父(当時は哲あんちゃんと呼んでいた。)は魚捕りの名人で、釣りだけではなく、投網、ビンダルなどの方法でたくさんの魚を捕っていた。そしてその魚を煮て、帰りにお土産として持たせてくれた。哲あんちゃんには、きのこ捕りにも連れていって貰い、いろいろなことを教えてもらった。

④   私が何歳の時か覚えていないが、母と姉の3人で箱根に旅行したことがあった。姉は高校卒業後日本輸出入銀行というところに就職していたが、その輸銀の保養所が箱根にあるということで、3人で行ったのである。箱根で乗ったバスが途中でエンストかなにかで止まってしまい、乗客が降りてバスを押したというアクシデントはあったが、全体として楽しい旅行であった。母も楽しそうにしていたが、後で聞くと、この時母はお金がほとんどなく、経済的に非常に苦しい中での旅行だったらしい。そんなことを微塵もみせず、普段どおりに振る舞うというところに母の性格がよく表れていると思う。

⑤   私は小学校時代野球が大好きで毎日のように野球をして遊んでいた。野球をするといっても、その時の人数の集まり次第でゲームになったり、単なるキャッチボールになったりした。小学校時代の友達に斉藤隆君という子がおり、彼の家の近くでもよく野球をして遊んだが、そこは、母が仕事を終え、帰ってくる道の途中にあたり、私が遠くに母の姿を見つけると、その日の野球は終え、母と共に家に帰るのを常としていた。
母は給食の仕事をしていることから、残ったものを持ち帰り、家で食べていたが、両手に荷物を抱え、職場から家まで歩いて帰ってくる母の姿は力強く、頼もしかった。私は、夕方母の姿を見つけると嬉しく、一緒に家に帰れることが嬉しかった。

⑥   小学校時代の母は、私にとって父でもあった。物心ついた頃には父がおらず、父と遊んだという体験を持たない私に母は私と相撲をとるという形で父親の役割を果たした。どちらから言いだしたかわからないが、私と母は家の畳の上でよく相撲をとった。母は体格もよく、体重もあるので小さい私が押してもなかなか動かず、私にとって母は強敵であった。

⑦   母はクリスチャンであった。誰の影響でいつからクリスチャンになったかは知らないが、日曜日には日曜礼拝ということで、よく教会に連れていかれた。教会は私にとってさほど楽しいところではなかったが、クリスマスの時だけはプレゼントをくれるので、教会に行くのが楽しみであった。クリスマスの夜は教会の牧師さんなどが、信者の家を回り、家の前で賛美歌を歌ってくれた。

⑧   南千住の家には風呂がなかったので、銭湯に行っていた。銭湯では、母と一緒なので、女風呂に入っていた。小学3年までそのようなことが続いたが、ある日銭湯で同級生の女の子に会い、急に恥ずかしくなって、その日から女風呂に入るのを止めた。それでも、銭湯には母と一緒に行くことが多く、帰りに待ち合わせて、屋台のおでんを食べたりして帰った。風呂の後のおでん、これも子どもの頃の楽しみの一つであった。

⑨   南千住の家で私は高校3年まで過ごした。この家はさほど広くはないが、母の弟の武夫夫妻と2人の子どもが同居しており、父を除いて最大9人(武夫叔父が離婚して家を出、ミツが死んでからは7人)が一緒に生活するというにぎやかな家であった。ここで、母は夜、お茶とお花を教え、お弟子さんが帰った後、同じ場所に布団を敷いて、家族で寝た。

 南千住の家で面白かったのは、「離れ」と呼んでいた独立した部屋があったことである。2~3畳程度の小さな部屋なのであるが、庭に母屋とは別個に建てられており、子ども部屋として使われていた。当初姉が使い、姉が高校を卒業すると、兄と私が使った。姉はその部屋でよく勉強していたが、兄と私は勉強というよりは遊びに使い、兄が工作が好きだったことから、半田コテを使ってラジオ作りなどをしていた。私は小さい頃から魚が好きで、その「離れ」の横(外)の扉を開けたところに大きな木の樽を置き、そこに水を張って魚を飼っていた。そして、部屋の中から、短い竿を出して魚釣りをした。その「離れ」は私にとって秘密基地のような空間であった。

 南千住の家には、庭があった。そこには、母がお茶を教えていることから、その関連の植物の他、桜の木が3本植えてあった。その桜が毎年きれいな花を咲かせてくれるのは良いのだが、花が散ったあと、大量の毛虫が発生するのには難儀した。新聞紙を丸めて棒の先につけ、火をつけて焼き殺したりしたが、毛虫退治も子どもの仕事であった。

 

14  中学、高校のころの私は、母にとって手のかからない子であったと思う。進学なども全部自分で決め、学校の保護者会なども、中学の時は姉が出席したことはあったが、母は一度も来たことがないと思う。

 高校3年のとき、南千住から千葉県の松戸市に引越しをした。これも母が全部自分で決め、実行したことである。南千住の家の負債を完済し、名実共に自分のものになった南千住の家を売り払い、松戸に自分の思い通りの家を建てたのである。南千住の家は平屋であったが、松戸の家は2階建てであった。和風の門を入ったところに松を植え、1階に茶室を作った。2階に寝室を作り、ベッド付きの私専用の部屋も作ってくれた。

 母は松戸に移ると同時に昼の仕事を辞め、茶道と華道を教えることに専念した。南千住時代のお弟子さんもほとんど松戸まで来てくれた。家の近くに畑を借り、野菜作りも始めた。この野菜作りも前々から母はやりたかったようで、松戸への引越しに伴い実行したのである。母の実家は元々農家ではなく(自分たちの食べる野菜などは作っていたが)、母の農業体験は戦時中のことだったらしい。そのころ自分が栽培したトマト、トウモロコシ、なす、きゅうりなどの味が忘れられず、また、作り始めたのである。朝早く起きて、畑に行き、汗を流して、帰ってシャワーを浴びる。そのような健康的な生活が続いた。畑で、近所の人を誘って、お茶を立てて振る舞ったこともあった。私も何回か畑に同行したことはあるが、私は続かなかった。後に私が家を離れてからも、母は畑でとれた野菜をよく私に送ってくれた。その日にもいだトウモロコシというのが一番おいしかった。高3の時松戸に越したが、私は現役では大学に受からず、一浪することになった。松戸の新居は私にとっても快適で、浪人生活は、予備校にも行かず、高校にあった補習課にも通わず、専ら家でラジオ講座などを聞いて勉強していた。その頃兄は名古屋か大阪に転勤になって家におらず、姉はNHKのカメラマンと結婚して、月の半分は出張で夫がいなかったので、松戸の家の近所に引っ越してきた。母に子どもを見てもらえるという利便があったからだろう。私も浪人時代は姉の子の世話をよくした。

 大学の選択は自分でした。一浪以上は出来ないので、今度は私立も受けることにし、姉の夫が卒業した早稲田の政経を受験した。問題は国立をどこにするかで、迷った末、東京を離れることにし、京大にした。母は私が京都に行くことについても反対せず、全て私の自由にさせてくれた。結果的には、早稲田もとおり、京大も合格した。京都から「サクラサク」の電報が来た時は、家中で喜んでくれた。

 

15  私が京都に行ってから、程なくして母が京都に来た。私の生活振りを見るためと、京都観光を兼ねてのことだったろう。一泊目は私の入った寮の談話室に泊まったが、あまりのきたなさに閉口し、2泊目からは寮の前にある旅館に移った。私の寮生活に必要なものなどを揃えてくれて松戸に帰って行った。

 大学時代、母は私に毎月1万円の仕送りをしてくれた。月8千円の特別奨学金を貰い、授業料は免除して貰い、安い寮に入ってアルバイトもしていたから、仕送りはしてもらわなくても生活はできたのだが、そのことを伝えても母は仕送りをやめることはなかった。

 

16  私は、それまで親孝行にあたるようなことを何一つしてこなかったが、逆に一般的には親不孝の部類にはいるような事をしてしまった。大学で学生運動を始め、あげくのはては逮捕されてしまったのである。大学2年の9月のことである。この時自分のやったこと、やっていることをどのように母に伝えるかで、私は悩んだ。そして拘置所にいる時に一通の手紙を母宛に書いた。私は、私のやっていることを母に理解して貰うのは無理だと思っていた。「なんてことをしてくれたんだ。」「こんなことをやらせるために大学にやったのではない」というような、このような場合一般的に親が示す反応をしてくるんではないかと思っていた。

 

 私の手紙が母の元に届いて、程なく母が拘置所に面会に来た。目の前で嘆かれ、泣かれたら困るなと思いながら、面会室にいくと、そこでの母の反応は全く私の予測を超えたものだった。

 母は、面会室に入るや、あたりをキョロキョロ見回し、「こんなところにいるの?」と興味深げに話しかけてきた。私の体のことを心配することはあっても、私を非難するような言葉は一切発しなかった。勿論嘆くとか泣くということもなかった。このような母の対応はその後も続いた。その年の年末に保釈で出た私は、その足で松戸に帰ったが、母はその時一枚の新聞写真の切り抜きを私に見せてくれた。その写真は1969年9月22日の朝日新聞の夕刊に載ったもので、京大時計台で逮捕された私が連行されるところの写真であった。ヘルメットも取り、両腕を首に回して、私一人だけが写っていることから、私を知っている人が見れば、すぐ私だとわかるようなものだった。このような写真を隠すのではなく、大事そうに持っている母の気持ちはどのようなものであったのだろうか。まさか「うちの息子は朝日新聞に大きく載るくらい偉くなった。」と自慢するために持っていたとも思えないが・・

 

17  自分の裁判を終え、執行猶予がついたことから、弁護士を目指して勉強を始めたときも母は協力の姿勢を見せてくれた。定期預金が満期になるものがあるから、それを私にくれるというのである。今まで散々世話になっており、これ以上私のわがままに付き合わせるわけにはいかないということで、それは断ったが、その時の母の気持ちは嬉しかった。幸い司法試験に合格し、弁護士になり、これから親孝行できると思った矢先に母は認知症になってしまった。弁護士になった初給料で、母、姉、兄などを西伊豆旅行に招待した時に、母の認知症が発覚したのである。

 認知症で老人ホームに入っている時でも、私が会いに行くと、回りの人に「内の次男は弁護士なんですよ」と自慢したり、お弟子さんが行くと、お茶の先生らしい振る舞いをしたり、認知症といっても意識がはっきりしているときもあった。

 

18  母が死んだのは、平成6年11月21日の午前4時ころであるが、その時刻に不思議なことが起こった。私が寝ている部屋のふすまがスーッと開き、誰かが入ってきたのである。最初は泥棒かとも思ったが、近づいてきた人の顔を見ると、母であった。母は何も言わず、私の顔をしばらく見て、スーッと消えた。その時私は母が死んだということを直感した。母が最後のあいさつをするために私のところにあらわれたと思ったのである。朝方、兄からの電話で母の死を知り、私の直感が正しかったことを知った。

 

19  母が死んで間もなく四半世紀がたとうとしている。このように母の人生をたどってきて、母の人生は苦労は多かったが、決して不幸なものではなく、自分の思い通りに生きた幸せなものだったという気がする。元々母には苦労を苦労と思わない楽天的なところがあり、お金がなくても、貧乏感覚はなく、見栄をはるわけではなく、淡々と生きてきた。子どもには充分愛情を注いでくれたが、子どもに頼ることなく自立していた。

 そんな母から、私も多くのものを引き継ぎ、私の人生を生きてきた。母は私にとって、最大の「忘れえぬ人」である。

 

                            2018・7・1

 

 

 

 

片見冨士夫法律事務所

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