忘れえぬ人びと(その4 馬谷憲親)

 1947・7・7~2011・8・16 広島出身。京大法学部を卒業後大阪府庁に就職。学生時代は学生運動、府庁に入ってからは自治労のメンバーとして労働運動、住民運動など幅広い活動に従事していたが、2011年に64歳で死去。


 

1 「馬谷さんとは色々な思い出があります。学年は馬谷さんの方が1年上で、学部も違いましたが、大学闘争を共に闘い、その後も色々なつきあいをさせて頂きました。馬谷さんの借りていたアパートに押しかけ、一緒にご飯を食べたり、休日にはハイキングに行ったり、畑仕事を一緒にしたこともあります。あの頃は機会があれば会っていたようで、生活面まで一緒だったような気がします。

  それがいつのまにか会わなくなって、時々どうしてるかなと気になることはあっても連絡をとることはない中での突然の訃報でした。馬谷さんの笑顔が思い浮かびます。

  他者に対する思いやりのあるやさしい人でした。馬谷さんにずいぶん助けられたと今でも思っています。」
 この文は、私が馬谷さんの追悼文集「遥かな友に 馬谷憲親とその時代」に寄せたものである。

  短いけれど、私の馬谷さんに対する様々な想いの詰まったものである。

 

2 大学時代のこと、学生運動のこと

  馬谷さんが京大に入学したのは1967年で、私より1年早い。従って、馬谷さんの1回生(京大では1年生のことをこう言う)のころのことは正確には知らないが、当時羽田、佐世保、三里塚など反戦闘争が盛んに行われていたことから、馬谷さんも1回生の早い時期から学生運動に関わっていたのではないか。そして、馬谷さんが選択した党派が三派全学連の中の一派・反帝学評(社青同解放派の学生組織・青ヘルメット)だった。馬谷さんが、何故この党派に入ったかは、後に私の考えを述べるつもりだが、一つは人脈である。当時、京大で反帝学評のキャップをしていたのが伊藤公一さんという人で、その義理の兄にあたる高尾さんという早稲田の人が京都にオルグで来ていた。馬谷さんの奥さんが伊藤さんや高尾さんの奥さんと繋がっていたこともあって、馬谷さんはこの2人にオルグされ、反帝学評に加わったのだと思う。

  私が京大に入学した1968年という年は、反戦・反安保という政治闘争だけでなく、東大・日大を始めとする大学闘争が始まり、高揚した年であった。この年の11月には、東大で「東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会」が開かれ、私は日大に前夜から泊まり、日大の部隊と共に東大に向かったが、馬谷さんたちは、前日から東大に泊まりこんでいた。

  馬谷さんで思い出すのは、68年の秋のことだと思うが、神戸で三派全学連が初めて登場するという闘争の日、青ヘルメットの隊列の最前列にいた馬谷さんの姿である。当時京大の反帝学評の馬谷さんの世代は、鈴木さん、芳村さんなど体が大きい人が多く、デモ隊の一番しんどい最前列を任されていた。

  馬谷さんは、このように常に先頭に立って闘っていた。

 

3 京大闘争のこと

  1969年1月に京大闘争が始まった。きっかけは寮問題で、私は熊野寮生だったので、伊藤公一さんらと、総長団交に臨み、団交が決裂したことにより、学生部の建物を封鎖・占拠するという闘争に入った。馬谷さんは、寮生ではなかったが、この闘争に反帝学評のメンバーとして加わっていた。学生部の中に泊り込み、封鎖を実力で解除するため連日押しかけてくる代々木(日共)との熾烈な闘いを担っていた。

  学生部封鎖は、残念ながら解除されてしまうが、逆にこの解除をきっかけに京大闘争は全学化した。1月下旬の教養部代議員大会で、教養部の無期限バリケードストライキが可決されるが、法経1番教室で行われたその大会の議場に馬谷さんの姿が写った写真が今でも残っている。当時馬谷さんは教養部の2回生だった。

  馬谷さんは、その年の4月に教養部から法学部に上がり、教養時代の法学部の全共闘派が法学部闘争委員会(J闘)を組織した。当時の法学部は自治会を代々木系が握っており、全共闘派は少数派であった。従って、法学部ではストライキも打てず、バリケードなど夢のまた夢であった。それでも、10名ほどのJ闘のメンバーが法学部事務局を占拠したことがあった。あまりの少人数での占拠決行に、参加した者も心細く緊張している中で、馬谷さんは1人落ち着いた態度で悠然と構えていたそうである。この時の馬谷さんの振る舞いが他の者をどれだけ勇気づけたか、そんな話を当時のJ闘のメンバーから聞いたことがあった。

 

  J闘のメンバーは、馬谷さんの影響か、反帝学評系の人が多かった。馬谷さん、鈴木さんは反帝学評の活動家であるが、その他に近藤さん、岡村さんなどもシンパとして、青ヘルをかぶっていた。

 

4 時計台闘争のこと、その後の救援活動のこと

  京大闘争は69年9月に頂点を迎えた。機動隊を導入して封鎖を解除し、大学を正常化しようとする当局の動きに対して、それに抗する学生らが、京大の象徴とも言うべき時計台に立てこもり、徹底抗戦したからである。

  夏を、北大のバリケード内で過ごした私は、夏の終わりに京大に戻り、反帝学評のフラクションに参加した。それは、これから始まる時計台闘争に参加する(籠城する)者を決めるフラクであった。事前に党派間で人数が決まっていた。中核派4名、反帝学評2名、プロ学同1名、第4インター1名の計8名ということであった。反帝学評としては、その2名を誰にするか決める必要があった。伊藤公一さんがまず手をあげた。伊藤さんは前にも述べたが、京大の反帝学評のキャップであり、京大闘争の出発点となった学生部封鎖闘争のときの寮闘争委員長であった人である。総長団交の決裂時に闘争宣言を発し、その後の京大闘争を先頭にたって闘っていた人であった。その人がまず手をあげ、続けて私が手をあげた。私は、京大闘争が始まってから、寮闘争委員会、教養部闘争委員会(C闘)などで活動していたが、そのころは、熊野寮自治会の書記長をしており、私自身の選択として時計台への立て籠もりを名乗り出た。時計台へ入るということは、確実に逮捕され、起訴され、実刑をも覚悟しなければならない立場に置かれるということである。自分の将来の道(一般企業への就職、京大に研究者として残る等)を閉ざすことでもある。私は、この段階であえてそのような道を選んだ。

  このフラクには、京大の反帝学評のメンバーだけでなく、他大学のメンバーも多く参加していた。伊藤さんと私が、皆を前にして時計台に籠もる決意表明を述べるのを、馬谷さんはじっと聞いていた。馬谷さんは、伊藤さんと私がいなくなったあとの自分の果たすべき役割のことを考えていたのであろう。

  69年9月20~22日のいわゆる「9月決戦」で、時計台の8人の外、医学部図書館に立て籠もった3人、農学部の建物内に残った教官10人、京大周辺の街頭闘争で103人の計124人が逮捕された。

  それらの被逮捕者の救援のために、統一救対が結成されたが、馬谷さんは反帝学評の救対として、この統一救対に参加した。中核派を中心としたこの統一救対は、党派間の利害対立もあって大変だったと思うが、馬谷さんは、10名を超える反帝学評の被逮捕者だけでなく、無党派(ノンセクト)の被逮捕者の救援にも奔走した。私は中に入っていて、知らなかったが、出てきた後に、この話を聞き、如何にも馬谷さんらしいと思った。党派の救対でありながら、やることは党派の枠を超えて行う、そして、自分は表には出ず、縁の下の力持ちに徹し、しんどい部分を担う、これが馬谷さんのやりかたであった。

  私を含めて時計台組は、逮捕されて約3ヶ月後の年末に保釈で外に出れたが、この保釈をめぐる弁護士との打ち合わせ、保釈金の準備なども馬谷さんらがやってくれた。保釈金は京大新聞のOBなども動いてくれたが、私が預けていった預金に手をつけることもなく、私の親・兄弟にも負担をかけることもなく、京大の先生方を回ったりして、集めてくれた。

  そして、馬谷さんの私たちに対する救援活動は、裁判が始まってからも続いた。時計台裁判は、一審だけでも69年12月2日の第1回公判を皮切りに、1978年9月25日の第57回公判まで約9年続いたが、馬谷さんはそれらの公判に一回も休まず傍聴を続けてくれた。私が、「京大時計台裁判の10年 第Ⅱ集」の「あとがきにかえて」で書いた

 「最初通路を埋めるまでいた傍聴人の数も、公判の回数を重ねるに従って減り、一人の大学教師と一人の友人を除けば家族だけが残りました」という「一人の友人」とは馬谷さんのことである。(ちなみに「一人の大学教師」とは野村修先生である。)

 

  馬谷さんは、1973年3月に京大法学部を卒業し、同年4月に大阪府庁に就職しているが、73年4月以降の約5年間の裁判傍聴は、わざわざ仕事を休んで来てくれていたわけである。

 

5 反帝学評のこと

  馬谷さんが、学生時代反帝学評という党派に属していたということを、馬谷さんの学生時代を知らない人に話すると、びっくりする人が多い。馬谷さんは党派性のない人で、党派とは無縁だと見えるからである。

  そこで、私自身がノンセクトの活動の後、反帝学評に入った理由ともからめて、馬谷さんにとっての反帝学評ということを少し考えてみたい。

  反帝学評というのは、正式名は反帝学生評議会と言い、社青同解放派の学生組織として、1967年頃に出来たものである。67年というのは、三派全学連が出来、10・8の羽田闘争があった年であるから、そのような激動の中で、社青同解放派という社会党の青年組織である社青同(社会主義青年同盟)の中の一分派(社青同の中には、解放派の他に協会派があり、協会派の中にも向坂派と太田派があった。)の大学生組織として誕生したのである。初代の議長は東大の三井さんだったと思う。

  反帝学評を「組織」と表現したが、実は反帝学評というのは組織というよりは、運動体と言った方が実態にそくしている。党でもなく、同盟でもないから、メンバーは党員でも同盟員でもなく、反帝学評の隊列の中に入り、デモをしたり、フラクションに参加すれば、誰でも反帝学評である。反帝学評に入るのに、入会手続きがあるわけではなく、会費を払わなければならないわけでもない。社青同解放派の学生組織といっても、社青同解放派の方針に従って、全て動かなければならないというわけでもなく、自分の判断で動けば良く、上の判断に従わなかったから、除名とか、勝手なことをしたから除名とか、そういうこともない。左翼にありがちな査問委員会といったものもない。

  社青同解放派には「行動委員会」理論(組織論、運動論)というのがあり、反帝学評というのは、その「行動委員会」の最も突出した部分と言ってよい。

  このように、反帝学評(行動委員会)というのは、運動形態としては後の全共闘に近いものがあり、組織嫌い(アナーキスト)が集まっていたような気がする。

 

  ここで、私が考える「反帝学評」の特徴(これは社青同解放派の特徴とも重なるが)を他党派を念頭におきながら、列挙してみる。
 ① レーニン主義的な「前衛」という考えをとらず、労働者の自主性に重きをおくことから、

    ローザ・ルクセンブルクの考えに近い。
 ② 組織温存という考えがないから、重大な闘争のとき、トップが先頭に立ち、逮捕されてしまう。

    京大時計台闘争の伊藤さん、東大時計台闘争の三井さんなどがその例である。
 ③ 教育過程を「労働力商品の生産・再生産過程」と捉え、産学協同路線粉砕という教育闘争の基本

    方針を打ち立てた。
 私は、「反帝学評」の以上の点に魅力を感じ、反帝学評として活動しだしたが、馬谷さんもおそらく同じだろうと思う。何故「反帝学評」なのか、ということで、馬谷さんと議論を詰めたことはないが、一緒に活動していく中での共通認識みたいなものはあったと思う。

 

6 その後の生活のことなど
 
馬谷さんたちは、学生時代に学習塾を始めて、それで収入を得て自立的な生活をするようになっていた。家庭教師などより、時間的に少ない時間で多くのペイを得られるものとして塾を開設し、講師をやるとともに経営をしていたのである。

  一緒にやっていたのは、J闘の仲間の近藤さん、関さんらで、滋賀県の浜大津、石山、瀬田、京阪沿線の御殿山などで公民館を借りて、中学生を対象に補習塾をやっていた。

  馬谷さんは、大阪府庁に勤めるとともに、塾からは抜けるが、そのあとに入ったのが、私である。そのころ、京大に籍をおいたまま、時計台裁判の被告として裁判闘争を続けていた私にとって、馬谷さんたちの始めた塾というのは、生活をしていく上で、助かった。当時は、今のような大手の塾などあまりない状況の中で、私たちのやるような手作りの教材を使ってのこじんまりした塾でもそれなりに生徒は集まり、やっていけたのである。

  そして、私が塾に加わった頃、住居を京都の八幡市に移し(駅としては京阪の橋本)、

 隣の駅(樟葉)に住む馬谷さんと、日常的に交流したのがこの時期である。

  当時、馬谷さんは孝子さんと離婚しており(その後再び孝子さんと再婚)、司法試験を受験中の関さんと、京阪の樟葉の文化住宅の2階を借りて住んでいた。馬谷さんの住居の通りを隔てた前あたりには、鈴木さんが住んでおり、男山団地には岡村さんがいた。そして、機会があるごとに集まり、食事を共にするなどしていた。

  馬谷さんと岡村さんは、市から貸農園を借り、野菜等を作っていた。無農薬、有機栽培ということで、雑草取り、水やり等結構大変で、週末には私も畑仕事を手伝った。収穫したものは、皆で一緒に食べた。食べるのは、いつも馬谷さんの家で、関さんがまめに料理をしていた。酒も入り、遅くまでダベリながら楽しい時間を過ごした。時には馬谷さん抜きに、馬谷さんの家で集まったこともある。馬谷さんが府庁の人と魚釣りに行くという情報を得た私たちは、馬谷さんが釣って持ち帰る魚を目当てに馬谷さんの家に集まっていたのである。ところが、いつまで待っても馬谷さんは帰らず、当時は携帯などなかったから、どうなっているかわからず、腹をたてながら(空腹のため腹をたてていたのであって、馬谷さんには全く責任はない。)待っていたが、それを見かねて、関さんが冷やしソーメンを作って食べさせてくれたことを今でも覚えている。(その日、馬谷さんが魚を持って帰ってきたかどうかは全く記憶がない。)

  滋賀に住んでいた近藤さんも交えて、戸外へ遊びにもよく行った。近藤さん、馬谷さん、私などは登山をしていたので、家族連れでハイキングへもよく行った。覚えているのは、奈良の多武峰へいったときのことで、春先で前日降った雪が残っており、坂道がすべる状態だった。キャラバンシューズをはいてきた者はいいが、普通の運動靴できた人はすべって危険な状態だった。それを見て、馬谷さんが、近くの農家に入り、何をするのか見ていると、荒縄を貰ってきて、運動靴の人の足元に荒縄を巻きはじめた。こうすれば、滑り止めになるということである。馬谷さんというのは、そういう気遣いと知恵を持った人であった。

  京都の保津峡に行ったこともあった。夏の盛りで、川辺で魚釣りと飯盒炊爨をするのが目的であった。鈴木さんは鮎釣りに挑戦し、私たちは雑魚釣りをしながら、飯盒炊爨の準備をしていたが、誰が言い出したか、急流下りを泳いでしようということになった。保津川は船での急流下りは有名だが、それを泳いでしようというのである。誰も実際にやったことはなかったが、なんとなく出来そうな気がして、近藤さんと馬谷さんと私の3人が挑戦することになった。幸い、私たちのいたところがトロ場で、その上流がほどよい急流になっていた。私たちは川辺をしばらく上流に向かって歩き、1キロほど先で川に入った。泳ぎの一番うまい近藤さんが先頭で、つづいて馬谷さん、私の順であった。履いていたビーチサンダルを手にはさみ、平泳ぎで下ったが、急流なだけに泳ぐ必要はなく、ほとんど流れに身を任せてれば良いという感じであった。ただ、ところどころにある岩、特に水面下にある隠れ岩が危険で、それに当たらないように注意する必要があった。私は、前の2人を見て、同じコースを進めばよかったから楽であったが、前の2人、特に先頭の近藤さんは自分の判断でコースを選択しなければならず、気を使ったと思う。無事皆のいるトロ場に着いたときは、私自身もほっとしたが、何よりも泳いでいた当人たちより、トロ場で待っていた人たちが、私たちの姿を見て安心したと思う。馬谷さんは、2番手を泳いでいたが、後ろにいる私を絶えず気遣って、振り返ることもしばしばであった。私のほうこそ、馬谷さんにちゃんと前を見て泳がないと危ないよ、と言いたいところであったのだが。馬谷さんというのは、このように自分のことより、他者のことを心配する人であり、同時に新しいことにも進んでチャレンジする勇気のある人であった。

 

7 その後のことなど

  私自身は、自分の裁判の途中から、甲山の冤罪裁判に関わるように成り、馬谷さんも私がそのような活動をしていることを知って、甲山裁判の支援もしてくれた。

  そして、1978年の9月25日京大時計台の判決があり、私たちは、実刑も覚悟していたが、幸い執行猶予がつき、そのことを誰よりも喜んでくれたのが馬谷さんであった。馬谷さんが傍聴を続けてくれていたのも、私や伊藤さんのことが気がかりであったからであり、この判決内容に本人以上にホッとしたのではないだろうか。

  判決の前日から、東京から来た伊藤さんや橋本さんと一緒に、私の家に集まり、判決の日は朝から、判決後の集会、飲み会まで馬谷さんは付き合ってくれた。

 

  京大時計台裁判が執行猶予で確定し(1980年3月)、支援で力を入れていた甲山裁判の一審判決が無罪だったことから(1985年10月17日)、私は弁護士を目指して司法試験にチャレンジすることにしたが、そのことも馬谷さんに報告した。伊藤さんは、裁判の途中から自治労本部の書記として仕事をしていたが、私が仕事をどうするのか、馬谷さんも気がかりだったようで、司法試験の話をすると、「絶対受かるから頑張って」と言ってくれた。

 

8 私にとっての馬谷さん

  このように振り返って見ると、私にとって馬谷さんとは、学生運動や反帝学評の一年先輩として、私の手本となっているだけでなく、時計台闘争以後は、ずっと私を支え続けてくれた人である。どうなるかわからない私を、ずっと見守り、馬谷さん流のやり方で私を支えてくれた。当時はわからなかったが、馬谷さんが声をかけてくれて、馬谷さんらと過ごす時間によって、私がどれだけ救われていたか、計り知れないものがある。

  馬谷さんは私にとって生涯「忘れえぬ人」である。

 

                                   2018年4月30日

 

この写真は京大時計台裁判の一審判決のあと、京都三条のビアレストランで、飲んだときのものである。
正面が馬谷さん、その右横が伊藤さんの奥さん(恵ちゃん)、馬谷さんの左で横顔が写っているのが私である。 

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