忘れえぬ人々(その3 野村 修)

1931 ~ 1998.2. ドイツ文学者、京都大学教養部ドイツ語教官

ブレヒト、ベンヤミン、ローザ・ルクセンブルクなどの研究者


 

 私が、1968年4月に京大に入学し、教養部に籍を置いたとき、野村修さんは既に京大教養部のドイツ語教官として京大にいた。私は、何時のころからか、野村さんの研究室をしばしば訪れるようになるのだが、何故そうなったかはよく覚えていない。おそらく、入学早々、私が入った京大熊野寮で、池田浩士さん(その年から京大教養部のドイツ語教官になっていた。ルカーチ等の研究者)を呼んで講演会があり、その縁で知り合った池田さんの研究室に行ったところ、野村さんも同じ部屋で、野村さんとも知り合いになったということではないかと思う。
 私は、当時文学部のL2というクラスで、第2外国語はフランス語のクラスだったが、(第1外国語は英語)、ドイツ語もやってみたくなり、池田さんの授業に出たりもしていた。研究室を訪れたのも、当初は池田さん目当てだったが、野村さんしかいないことも多く、いつのまにか野村さんと話をするために研究室に行くようになっていた。
 当時、野村さんの研究室には様々な人が出入りしていた。特に学生運動の活動家と呼ばれる人が、党派を問わず出入りしており、時にはカンパを要請され、野村さんが応じていたこともあったようである。野村さんは来る人拒まず、というところがあり、誰でも来易い雰囲気があった。数学の教官の森毅さんに言わせれば、当時の野村さんは「新左翼のアイドル」だったそうである(「寄り道して考える」PHP文庫)。アイドルという言葉が野村さんに当てはまるとも思えないが(容貌などの点で)、野村さんが当時新左翼の諸党派に人気があったのは確かである。

 

   野村さんは、私が逮捕された1969年9月の京大時計台闘争の長期裁判(一審だけで約9年)に一回も欠かさず傍聴に来てくれていた。私が、被告人になっていたこともあるが、野村さんなりに京大闘争の行く末を見たいというか、京大闘争の総括をしたかったのではないかと思う。

 そして、私の要請に答えて、弁護側の証人となってくれた。以下はそのときの、野村証言である。(実施されたのは1976年6月24日の第45回公判、質問しているのは、崎間昌一郎主任弁護人)

 

   質問:  証人は昭和44年当時も京都大学の助教授ということですね。

 野村:  はい。

 質問:  所属の学部はどこですか。

 野村:  教養部です。

 質問:  44年の1月から京都大学で大学紛争といいますか、そういうものが起こったようですが、その経過について証人に今からお伺いしたいと思います。昭和44年の1月に寮生が京大の大学当局に対して、無条件に大学の寮を増寮といいますか、増やしてもらいたいという要求があったことはご存じですね。

 野村: はい。

 質問: 証人はこのような寮生の要求というのについてはどういうように当時、お考えになっておりましたか。

 野村: 私の所属は教養部ですが、教養部はいろいろな学生が多いところでして、前年の暮れあたりから寮の自治会の人たちがまいているビラなどを見た記憶があって概略みたいなものは前年の暮れくらいから承知していたように思いますけれどもしかし、それを自分に関係ある問題としてよく考えようという気持ちになったのはやはり1月、学生諸君が学生部を封鎖してからあとだと思います。

 質問: そうするとまだ要求を出しておった時点では、そうやはり真剣というか、正確にはご存じではなかったというか、そういうことですね。

 野村: はい。

 質問: 具体的にはそうするとそういう要求があるというのは寮生の人たちが学生部を1月の16日から封鎖した後に知られたということになりますか。

 野村: そうですね。

 質問: そういうことですね。

 野村: はい。

 質問: 特別そうするといろいろと寮生が大学当局とそれまで交渉をしておったようですけれども、その内容については、たとえば教官の会議だとかそういうところで報告されたとか、そういうことはなかったわけですね。

 野村: その時点では教養部の教授会というのは教授だけで構成されておりました。私たちは、いわば教授会で何を決定しているかとか、あるいは教授会の決定事項さえ知らされない状態でしたから。

 質問: その後、こういう寮生の要求があったということについて、証人としてはどのようにお感じになったのですか。

 野村: 1月以降、教養部の教官の中でもこういうことをよく考えてみようということで資料を集めたり、学生の諸君から話を聞いたりして事実を確かめていったことがございますので、その過程で寮生諸君の要求はもっともだというふうに考えるようになって来ました。

 質問: 当時、大学側は無条件には増寮することはできないんだということですね。

 野村: はい、5年ほど前からだと思いますけれども、寮生諸君と大学当局、直接には、学生部が交渉を重ねていって、そして大学側としては寮を増やすことには異議はないと、これは大学にかぎらず私たちとしては京大に寮が少ないことが、これは既定の事実でして、他の大学、どの大学と較べても非常に寮が少ない、寮の収容人数が少ない、寮を増やさなければいけないということはだれでも知っていることで、大学側も数年前からその必要性は認めていたわけです。そしてもう一つ寮を増やす上で、大学側の説明では障害になるといいますのは、文部省のほうが寮の管理規則というものを考えましてそれを各大学に適用してもらいたいと、適用すれば寮を増やすというような、新しく寮を建てるというような態度をとり始めていてそのことが障害になって寮が建たないんだという説明を大学がしていたと思います。しかし同時に大学のほうでは京大には昔からの寮自治の慣行があってそれはスムーズに運営されていたわけですから寮の自治の慣行を尊重したり、それを尊重するという原則に立って文部省と交渉するということを言っていたわけですね。それは5年前から毎年のように寮は増やす、そして京大の寮の自治の慣行は揺るがさない、その2点は寮生に対しては、はっきり約束していたはずなんですが、そのまま5年ほど何の発展もないといいますか、寮は建たない、そして、寮の予定の敷地と考えられるものも要するに転々と移動する、そういう状況が続いていたと思います。

 質問: そうすると結局、大学側は寮生に対しては寮生の要望に答えて増寮していくんだということを長年言っておったけれども実際にその約束は実現されていなかったというか、そういうところが問題だということですか。

 野村: そうですね。

 質問: それから2番目の要求といたしまして何か当時、京都大学で20年の長期整備計画というものがあって、それの白紙撤回ということが問題になったようですね。

 野村: はい。

 質問: ところで証人にお伺いするんですが、京都大学の20年長期整備計画というのはどこで作成されたものですか。

 野村: 存知ません。

 質問: ご存知ないですか。

 野村: さっきちょっと申しましたが、その当時私たちは教授会のメンバーではございませんので、全く報告聞いていないんです。

 質問: そうすると、そういう20年整備計画の内容ですね、具体的な内容について教官であられる証人自身も大学当局からは説明は受けられていないわけですか。

 野村: 受けていないわけです。

 質問: あるいは、どういう過程でそういうものが出てきたのか、そういうことについても一切知らされなかったんですか。

 野村: そうです。

 質問: それからもう1つの要求として、大学の財政の全面公開ということを寮生の人たちは要求しておったようですね。

 野村: はい。

 質問: 当時は助教授であられたようですが、助教授でも大学の全体の財政についてはわからなかったというか、公開はされていなかったんですか。

 野村: 公開されていなかったはずですし、もちろん承知していません。

 質問: そうすると、どこの部局にどういう予算がつけられているのかということはわからないわけですか。

 野村: はい。

 質問: 証人は当時、教養部の所属であられたということですが、教養部の中の財政についてはどうなんでしょうか。

 野村: それは教授会で審議決定していたはずですので、教授であれば教養部の予算決算については承知していたはずです。私の場合には正にそれも知らなかった状態です。

 質問: 助教授以下の場合は、それもわからなかったということですか。

 野村: はい。そして財政の問題、20年長期計画の問題というのは私たちにしても初めてそのちょっと前くらいに耳にしたと思いますが、いずれにしてもそういうものが大学の全構成員の前に明らかにされなければいけないということは、これは学生諸君だけではなくて当時の職員組合も問題にしていた記憶があります。そういう要求は各方面から大学に出していたと思います。

 質問: そうすると学生側が当時要求しておった20年の長期整備計画の問題なり、財政の全面公開というのは必ずしも学生だけが要求しておったものではなくて。

 野村: ではなくて、もっと広い要求であったと思います。

 質問: 結局、1月の16日から学生部が封鎖されたということになったわけですが、証人自身はなぜ学生がそんな封鎖を学生部の中でしたんだろうかというように、お考えになりましたか。

 野村: まあ、直接には大学当局が寮生との間に5年前から様々な約束を交わしながら、結局それは口約束であって、実際にはおそらく何もしていないと、そういうことに対する抗議の意思表示であったと思います。で、まあ、直接にはもちろんそうですが、もっとそれだけではなくて、あの行動には広い意味と言いますかね、もっと客観的な包括的な意味もあったような気がします。といいますのは、1つには当時世界的に学生運動が盛んな時期でしてヨーロッパやアメリカでも大学内の権威主義的な体制を問題にするような運動が盛んにありまして、その中でも大学の学舎の一部を学生が占拠するということがあったように記憶します。そういう行動の意味というのは全体的にやはり一つの普遍的な意味を持っていたと思うんですけれども、私たちこういう日常生活の中にとらえられていますと、自分の日常生活がどのようなものの犠牲の上に成り立っているかをなかなか自覚することができない。例えば、現在、日本の社会なり政府なりは韓国での非人間的な状態と全く無縁ではない。むしろあの非人間的な状態を支える役割を日本の政治なり、社会はやはり担っていると思いますけれども、そういう点にしてもあるいは様々な企業が自分たちの営利のために公害を撒き散らしたりしていることについても、それは自分たちの日常がそれを支えているわけですが、全くやはりそれは身近なわけですね。その日常が、そういう非人間的な体制を支えているということがやはり日常を一旦停止してみないと自分にとっても自覚しにくいし、それから他人に自覚を迫ることも困難だということがあって、そのような自分の自覚のためでもあれば他人に自覚を求めるためでもある意思表示として、日常をストップするための占拠と言いますかね、封鎖と言いますか、そういうものが広くとられていたように記憶します。それはやはり僕は意味があることではないかと思います。それからもう1点は、ちょうどその時点は東京大学で前年以来の長い紛争と言いますか、闘争と言いますかが、引き続いていまして、あそこは学生処分が最初の発端であって、その学生処分が全くの誤りであったことは、その当時既に明白であったわけですね。ところがその誤りある学生処分を大学側は自己批判することをしない。また、それに伴って出てきた学生諸君の様々な要求に対しても正面から対応することはしないで8000の警官隊を導入して、要するに警官隊によって構内を制圧して構内を正常化すると言いますか、そういうことがもう目前に迫っていた。そのような状況の中で、東大の学生の諸君に対する連帯の意思表示でもあったと僕は思います。その意味合いもあったと。で、様々な意味合いを持って学生部封鎖がなされていたと思います。

 質問: 証人自身は特別、当時学生の一部の人たちが学生部を封鎖したことについて、非常にむちゃなことをやるというふうにはお思いにならなかったですか。

 野村: 京大としては確か私の記憶する限りでは、建物をいわゆる封鎖するというのはあれが初めてではなかったかと思いますが、ショッキングであったことはその通りですが、ショッキングであったから、しかしまた、考えるきっかけになったという面もあると思います。

 質問: 証人自身はそういう事態に立ち至ったときに大学側としてはどういうことをすべきだと、まずですね、と言うようにお考えになりましたか。

 野村: そうですね。僕は今もちょっと申しましたが、封鎖なり占拠なりというものはそれ自体は一種の非暴力直接行動の一つであって、他人に新しく考え直すことを迫るための意思表示だと思っております。だからそういう機会をとらえてと言いますか、新しく大学当局が考え直すための、大学当局が新しく自分のこれまでの行動を考え直すためのきっかけとしてとらえるならばこれは無意味ではないし、そこから別に混乱が起こることもあるまいと思っていました。

 質問: ところで、学生部の封鎖に対して、大学当局は1月21日から23日にかけて実力で封鎖を解除したり、その間、封鎖されている大学本部を逆に封鎖をするという処置に出たわけですが、その点については、証人はどういうように当時お考えになっておりました?

 野村: 私としては、これは私に限ったことではありませんが、大学は理性を根拠としてなりたっているのが当然なことでして、学生諸君に対しては、常に自らの根拠が理性的であるかどうかを問い直しながら、対応していかなければならないはずだと思います。その根拠を問うことすらしないで、大学当局が暴力によって学生と対処する。大学が暴力を公認してしまった。それだけではなくて、しかも、大学の名において多くの教官職員学生を動員しまして、学生との間にいわば、学生相互の争いというものを自ら作り出してしまったということを大変な誤りであったと思っております。

 質問: 当時、特に1月21日から1月23日までのそういう状態を指して「狂気の3日間」ということが言われておるんですけど、そういうような状態が起こった原因というのはどういうところにあったというふうにお考えになっておりますか。

 野村: 1つには、大学当局があの封鎖というものをいわば自己を反省して新しく話し合いを再開するためのきっかけにすることができなかった。そうするべきであると思うんですが、そうはせずに、とにかく封鎖されると大学が荒廃するといったような非常に短絡的なといいますか、ショートした思考法をとってしまった。これは、ちょうど、その間に東大の警察官導入がありまして、そのことが新聞でも大きく報道されましたが、その例の1つとして法学研究所でしたか、東大のそれが、非常に、本棚もひっくり返ればいろいろ荒らされたということが報道されました。それは、学生がそこを占拠したから荒れたのではなくて、そこへ大学が機動隊を導入したから荒れたのですが、そういう具合に媒介項をおいて考えることすらしないで、学生が占拠すると研究室も荒れると、こういうふうな気分を京大自身が、今度は、大きく教官相互の間で、または、学生に対しても広げていくとか増幅していくといいますか、そういう形で自らマスヒステリーみたいなものを作っていった。これが、非常に大きな原因であると思っています。

 質問: ところで、こういった大学当局といいますか、そのやり方について、当時、教養部の部長さんが、大学本部のやり方について抗議をしたというようなことは、証人は聞いておられますか。

 野村: はい。それは1月21日にいわゆる大学側が、各門にバリケードを作って逆封鎖ということを始めるわけですけれども、その前日までの時点では、そのようなことは、大学の方針としては決まっていなかった。これは、あとで部長から、教養部の教官が全部聞いた事実ですけれども、ですから、教養部としては、21日当日ももう少し説明しますと、21日には、羽仁五郎さんという歴史家が京大に来られて講演会をされる予定になっておりました。その講演会に封鎖を支持する学生諸君が多く集まるであろうと大学側は考えまして、それに対する一種の対策として各門に教官・職員・学生を配置して、その集会に参加しようとする人たちを説得して門から帰ってもらうという方針を決めていたんですけれども、教養部に対してもその通達はあったと。しかし、その説得はあくまでも正に平和的なものであって、入ろうとする人がなおかつ、入るというのであれば、止めないということであったそうです。教養部は、その通達のとおり、といいますか、その方針のとおりに行動したわけですが、本部のほうがいわば自らの方針、通達を裏切る形で逆封鎖を作り出してしまった。そういうことがありましたから、教養部としては、本部に向かって、一体何なんだ、という抗議でもあり、問い合わせでもあるようなものを部長名でしております。その当時、教養部は平常に授業をしているから本部に入った教養部の学生諸君には帰れという通知もしていると思います。

 質問: 教養部というのは、当時、本部のすぐ隣の構内というわけですね。

 野村: すぐ南側です。

 質問: 少なくとも、教養部では1月21日から23日の間は、平常というか、正常に授業は行われておったんですね。

 野村: 実際は、学生諸君の数が少なかったり、あるいは、学生諸君が教室に現れても討論したりということで、いわゆる授業が公然と行われたということではありませんけれども、公式には、教養部はその間、授業を継続しているわけです。

 質問: 大学当局が、そういう形で、1月21日から1月23日まで対応したということは、結局はあとになんか悪い影響なり何なりを与えたようなことがあるんでしょうか。

 野村: それは、様々にあったと思いますが、一番大きなことは、大学側自らのいわば倫理性といいますか、倫理的な根拠というものを掘り崩してしまったということだと思います。その後、大学が学生諸君に何かを語りかけようとしても、それが、倫理的な根拠を持って語られるためには、大学の自己批判、根底的な自己批判がなければ、不可能になる。しかし、大学側が自己批判を行うことはなかった。そういう意味で、大学と学生との間の信頼関係といいますか、大学は教育機関ですから、大学と学生との間の信頼関係がなければどうしようもないんですが、その信頼関係を回復するよすがを自ら断ち切ってしまったということだと思います。

 質問: 1月21日から23日までの大学側のとった措置については、教官といいますか、教授・助教授その他大学の構成員の方も、参加されておるといいますか、いろいろと、実際にバリケードをしたり、封鎖をしたりに参加されている方が多数いらしたんですね。

 野村: はい。

 質問: そういう方々は、その後そういうことに参加したことについて反省をされるというか、自己批判をされるということはあったんでしょうか。

 野村: あったと思います。それはかなり広範にあったと思いますけれども、私が記憶しているようなはっきり表に出たものだけでも、人文科学研究所の河野健二さんと農学部の半田さん、四手井さんだったでしょうか。そういう3人の教授の方が呼びかけ人になって大学のとった態度に反省を要望するというか、大学の自己批判を要望するような要請書が多くの教官の署名を集めて出された記憶がありますし、教養部でも、それとは別個に何十人かの教官の同趣旨の声明が出た。これは、2月のもう半ばころになってからだと思いますが、記憶にあります。それだけではなくて、いわゆる逆封鎖が行われた時点から、すでに批判的な教官内部の動きはかなりあって、たとえば、農学部では、最初から大学当局に対する批判を公然としていたところもございます。

 質問: 教養部は、そういうような影響があって1月末からは、授業ができないといいますか、結局授業はされていないわけですね。

 野村: 1月30日と記憶しますが、学生達が、教養部の代議員大会を開きまして、そこで無期限ストライキを可決しています。そのことで1月31日以後、授業はない状態になっております。しかし、学生諸君は、その後も教室には現れまして、学生諸君のほうがむしろ自主的にいわば討論ないし、自主行動を始めていたわけですけれども、いわゆる授業は31日からございません。

 質問: その間、いわゆる入学試験だとか、入学式が実際に実施されたということのようですけれども、その間、たとえば、教養部では、そういう授業がされていない状況をどう打開するかということで、具体的な対応といいますか、学生に対して、どう対応するのだという具体策を練られたようなことはあるんでしょうか。

 野村: 少し、説明的になるかもしれませんが、先ほど、教養部の教授会が教授だけで構成されていたと申しましたが、1月21日に、この日はいわゆる逆封鎖が行われた日と記憶しますが、部長名で全教官に招集がありまして、その席で、今回の事態については、助手、教務職員をも含めて全教官で構成される教官協議会で考えるということになりました。これは奇妙なことで、本来教授会が自らの責任で事態を解決しなければならないのに、いわば、一種の責任転嫁として全教官にそれを任せた形になるわけです。人事権、財政権は教授会が握ったまま、今回の事態について全教官で考えるということで教官協議会が成立しました。そこでは、連日のように会議を開いたのですけれども、有効な解決策がそこで生み出されるということはなかったですね。それだけではなくて、2月半ばに、私の記憶する限りでは、教養部の部長、評議員が病気になられたり、それから、執行部の役割を果たしていた学生生活委員会というのがあるんですが、それは、執行部ではありませんけれども、その当時の事態の中で、執行部的な役割を果たしていたその委員会が、学生諸君とのいわばパイプの役割をしていたんですが、それが、2月中旬に全員総辞職するということもありまして、教養部の執行体制が2月中旬からかなり長い間マヒしているという状態で、教養部の教官協議会が具体的な解決策を生み出すということは、とてもその当時考えられないことでした。

 質問: 組織的というか、陣容的から見てもできない状態だったということですね。

 野村: はい。

 質問: 入学試験なりは、正常どおり行うといいますか、行われたわけですし、当初から、大学当局は行うということを意思表明しておったんですね。その状態の中で。

 野村: はい。

 質問: その当時、証人は、入学試験が正常に行われたことは問題ないことだとお考えになっておりましたか。

 野村: いえ、2月初めから、大学当局と申しますか、総長、学生部は、学生諸君との話し合いに一切応じていないと思うんですけれども、話し合いには全く応じないと、それで、どういう解決を考えていたかと言えば、入学試験があったり、新しい学生が入ってきて、4月から授業が予定としてはあるわけですね。そのような、いわば日程が迫ってくることをてことして、学生諸君の間から、そろそろ授業を聞こうではないかとか、試験を受けようではないかとか、入学試験はきちっとやらなければいけないとかいう部分が現れてきて、学生運動の方が自己分解することに期待をかけている。つまり、対応しないでいればその内に,学生運動の方が分解するであろう。そのような考えを持って、対応はしないと、ただ、日程は警察力を借りても守ると、そういう態度を大学当局はとっている。それは私からすれば全く誤った態度であると思っていました。

 質問: 教養部はそういう状態だったということですが、普通ですと、2月、3月というと入学試験の他に、教養部の後期試験というのがありますね。

 野村: はい。

 質問: その後期試験は、当時、実際には行われなかったんですね。

 野村: はい。後期試験については、教養部教官協議会が2月に正式決定をしておりまして、議論はいろいろあったんですが、それは省きまして、決定だけ申しますと、事態が平静に復した後、一週間の間を置いて、試験を行うという決定をしております。そして、事態の平静化ということは様々な解釈を含み得るんですが、とにかく、2月3日の時点では、試験はできないというのが教養部の態度です。

 質問: あえて、試験も実施しないということですね。

 野村: 実施しておりません。

 質問: 当時、ストライキと共に教養部では、いわゆるバリケードといいますか、封鎖というようなことが生じたわけですね。

 野村: はい。

 質問: それは、やはり1月30日以降ですか。

 野村: そうですね。30日の代議員大会決議を受けて、翌日に教養部の門にはバリケードができたと記憶します。

 質問: 教室も一部占拠されるということも生じたんですね。

 野村: それは、時間的には確実には覚えていませんが、そのころから段階的に占拠が行われていった。

 質問: 徐々に広まっていった。

 野村: はい。

 質問: そういうようなバリケードを、俗にバリケード封鎖というんですが、教養部がそういう状態になったというんですが、そのバリケード封鎖については、教養部の先ほどおっしゃった教官協議会ではどのような処置をとるということをお決めになったことがありますか。

 野村: あります。それも、随分議論があったわけですけれども、とにかく形の上でいわゆる実力をもってバリケードを解いたとしても、それは問題の解決には全くならない。それは問題を解決するのではなくて、単に物理的にバリケードが見えなくなるにすぎないと、言い換えれば、学生諸君の心の中のバリケードは解けない。そういうことで教養部としては、実力をもってバリケードを解除することはしないということを正式決定しております。

 質問: それはいつごろですか。

 野村: 2月か3月ですか、日付は正確には覚えておりません。

 質問: 6月ごろになりますと、教養部ですけれども、レポート試験を行うとか、行わないという話が出てきましたね

 野村: はい。

 質問: これはどういうことで、そういう問題が起こってきたんでしょうか。

 野村: 確か、5月末ごろではないかと思いますが、日本育英会の方から、育英会の奨学金を受けている学生、これはかなり多数にのぼるわけですが、奨学生の前年度の成績が出なければ、奨学金を停止するという連絡が京大に対してありまして、それを受けて、とにかく成績を出す、成績を出すためには試験を行わなければならないということで、教養部としてもそれを問題にしまして、6月だと思いますが、自らの事態が平静に復するまでは、試験を行わないという決定をいわば棚上げにしたまま、6月に試験を全部レポートによって行うということを決めています。

 質問: 最終的には、レポート試験ということで、そういう試験を教養部としても行わざるをえなかったということですね。

 野村: はい。それは約一ヶ月にわたって、いろいろ問題があったわけですけれども育英会から、そのような要求があったからといって機械的にそれに応ずるというのは筋が通らない。それはある意味では育英会が大学の状況に対して、いわば、金をちらつかせて監視するに等しい。今は、京大は京大の自主的な形での紛争の解決を思考しているときなのに、いわば、金で横っ面を張って試験を行えというのは、まず、育英会に抗議をして、こういう状況なのだから、成績にとらわれずに成績はいずれあとに出るに決まっているから奨学金を出してくれるように育英会に対して交渉すべきだという声が教官の中からも、学生の中からもありまして、一応、教養部もその意向を受けてレポートの試験はやったわけですけれども、その成績を出すことを一時凍結して、教養部部長、教官有志が日本育英会に交渉に行ったことがございます。それによって、成績提出の期限を多少延ばすことができたのですが、それ以降は、物別れになりまして、このまま事態をこじらせて奨学金を打ち切られては困る学生もあるだろうということで、最終的には、7月上旬に成績凍結を教養部としては解いております

 質問: 4月21日に文部省の次官通達がありますね。

 野村: はい。

 質問: ご存知ですね。

 野村: はい。

 質問: 大体、内容はどういうものであったかご存知ですか。

 野村: いくつかの項目を含んでいたと思いますが、一番中心と思われるのは、警察官が大学に立ち入ることについて大学の要請がなくても警察官は、大学に立ち入れるのだということをその通達が強制しようとしていたと記憶します。それは、従来の京大での慣行とも真っ向から相反するものであったんです。

 質問: 5月には、大学臨時措置法案というものが提案というか、国会に上程されましたね。

 野村: はい。

 質問: このような次官通達なり、大学臨時措置法案が出たことについては、当時どういうようにお考えになっておられましたか。

 野村: これは、大学の自主的な問題の解決というものをむしろ妨げるといいますか、大学が自ら理性を基盤として問題を解決していくというのではなくて、むしろ強権的な介入によって事態を表面的に治めてしまうために、文部省の側の介入であると考えました。

 質問: 当時、教養部の教授会あるいは教官協議会、当時は教官協議会というようですが、教官協議会では、このような一連の次官通達なり、大学臨時措置法案なり、そういうものについて反対声明なり何なりをお出しになったんですか。

 野村: 次官通達についても、いわゆる大学臨時措置法についても、反対声明を出しました。

 質問: ほかの学部ではどうなんでしょうか。それは、ご存知ないですか。

 野村: 当時の記録を調べればわかりますが、かなり多くの学部、研究所が同じような声明ないし意思表示をしております。

 質問: 特に警察官が大学内に入るというそういう問題に関連してですが、次官通達ですね。いわゆる大学の要請がなくても警察は、独自の判断で学内に立ち入ることができるんだという、そういう文部省の次官通達について大学当局といいますか、総長なり、そういう本部は、そのような通達についてはなんか意見表明かなんかしたことがあるんでしょうか。

 野村: はっきりした声明を出したかどうか、ちょっと記憶にないのですが、次官通達なり、大学立法なりが、京大のこれまでの慣行にも反しているし、大学当局としても賛成しかねる、反対であるということは、いろいろな形で表明していたと記憶します。

 質問: 次官通達に反対するというそういう態度そのものは、その後も一貫して、大学当局はとったといいますか、現実の対応の中でとったというようなことが言えるんでしょうか。それともそれと逆のような態度をとったようなことがあるんでしょうか。

 野村: 逆の態度をとった例がむしろあるわけで、だから、いわば言っていることとしていることが矛盾する場合があるわけです。私の記憶では、5月23日でしたか、奥田総長が学内にいる学生に対して退去命令を出したことがあります。そのときには、警察機動隊が学外に待機している状態のときで、総長が退去命令を出せば、いわば自動的に機動隊が入ることは明白に予想される状態だった。だから、総長が、直接には警察に対し大学に入ることを要請しなかったでしょうが、実質的には、ほぼ同じ行為をしていると言えると思います。

 質問: 口先では、反対だとかあるいはそういう趣旨の発言はしているけれども、とっている行動は、それと同じような行動をとっておったというか、そういうことがあるということですか。

 野村: そう思います。

 質問: 奥田総長が、この法廷の中でもおっしゃっているんですが、京都大学では、大学問題検討委員会というのが設置されたようですね。

 野村: はい。

 質問: それは、44年1月の大学紛争が起こる以前からあったものですか。

 野村: いえ、違います。私の記憶では、何月かははっきりしませんが、とにかく、44年2月以降だと思います。といいますのは、大検委と略称しておりましたが、そこには、各学部から委員を何名か出すことになっていて、教養部でも教官協議会でそのことが問題にされたことを覚えております。それが、2月以降だと考えられます。

 質問: これは、どういうことをする委員会なのか、簡単におっしゃっていただけますか。

 野村: 私も今、全ての項目はとても覚えていないのですが、大学の改革に3つの項目について審議するということをうたっていたと思います。1つは、総長選挙の改革で、1つは、教養部のあり方についての再検討で、もう1つがちょっと記憶にないのですが、3項目について審議するということをうたっていたと記憶します。

 質問: この委員会で検討されて、具体的な答申なり何なりは出されたんでしょうか。

 野村: それぞれ、答申は出ましたけれども、一番初めに総長選挙問題については、その年の秋に出ましたが、他の2つの項目については、数年の時間を経たあとで出ております。数年後に出たときには、大学内では、すでに大検委の存在さえ、ほとんど忘れられていて、その答申を受けて全学部の評議委員会が積極的にそれの実現を考えるという動きは、全くございませんでした。いわば、答申は形式的に出しっぱなしにされたようです。多少、生かされたのは、総長選挙拡大の答申だけであったと思います。

 質問: 大学問題検討委員会というのはあったけれども、実際には、それによっていろいろなものが具体的に改革されていったというようなものではないんですか。

 野村: とは言えないでしょうね。それが作られた時期からいって大学側に無対応の対応といいますか、学生とは話し合いをしないで、いわば日程の圧力で学生運動が自壊するのを待つという、そういう方針をとったときと、大検委を設置したときとは一致するわけで、私は、そういうふうなものではないと考えます。

 質問: 大学は、なぜ、そういう時期にそういう委員会を作ろうとしたのか、その意図ですね。これは、本当に改革をしようということで作ったのか、何か他の目的があって作ったのか、その点は、証人自身はどういうふうにお考えになりますか。

 野村: それは、かなり真面目に大学改革を意図していた人々もおりますし、それは、一概には言えないのですけれども、単に、これは学生の闘争に対する対策であると言い切ってしまっても失礼であろうと思いますが、様々な側面が含まれていて、ある面では、本当に真面目に大学改革を意図したエネルギーを形式的に吸い上げて、実際には改革しないと、そういう奇妙なエネルギーを外へ排除するパイプの役割を果たしてしまったことも事実で、それは、ちょっと簡単には整理しては言いにくい感じです。

 質問: 証人自身の感想で結構ですけれども、当時、学生側が封鎖をしたり、そういう形で闘争を行っておった一連の大学紛争と言われているようですが、そういうことが教官の立場からはなんらかの形で影響を受けたとか、今までの考え方について反省をしなければいけないとか、そういう点について、当時お考えになったようなことはございますでしょうか。

 野村: それは、私がこれまで申し上げてきたことも、そのような反省とも無関係ではないと思うんですが、やはり、学生運動があったということで様々なことを考え直さなければならなかった。自分が教官であるということについても、また、大学とはいかなるものであるべきか、ということについても様々な反省を迫られた、これが事実です。

 質問: 教養部は1月30日以降ストライキがされたということで、封鎖をされておったようですが、なんか、その中でクラス討論だとか、自主講座とか、あるいは反大学だとか、そういうことがあったようですね。

 野村: はい。

 質問: 証人自身も学生の行う自主講座なり、反大学に参加されるとか、講義をされるということがあったんですか。

 野村: はい。

 質問: そういう運動については、当時、どういうふうにお考えになりましたですか。

 野村: 多少、時期を区分して言わないといけないかと思うんですが、1月末に、無期限ストが決定されますけれども、その前一週間、つまり、大学の逆封鎖が21日から23日ですね。その翌日から、教養部はもちろん授業をしてるんですが、その翌日から30日の代議員大会に至る一週間は授業がほとんどクラス討論に切り替わっています。逆封鎖の3日間というのは、学生は学生部封鎖に加わっていた人もいるでしょうし、それに対する逆封鎖に加わった人もいるでしょうし、その全体を外から見ていた人もいるわけですが、そういう様々な学生が非常に活発な討論をしていたことが強く印象に残っています。その一週間のクラス討論は、非常に生き生きした、様々な議論が様々な方面から出てきて、それを聞いていることが教官にとっても刺激になるような一週間だったと思います。また、それを受けてといいましょうか、いわゆる無期限ストになってからも、学生たちは、大学に出てきていまして、本来なら授業があるはずの教室に集まって、やはりクラス討論や自主的に自分たちがテーマを決めて自主講座というものを始めました。2月初めからクラス討論や自主講座の行動があったと思います。それをまた一種の基礎にした形で3月ころから、反大学というものを構想する部分が学生の中から出てきて、それは様々な趣旨を掲げていたと思いますが、とにかく大学というものが、教官と大学生だけの特権的なものであるということに疑問を感じて、むしろ、大学外の人々にも大学を開放するといいますか、そういうことも含めて、つまり、参加者を京大生に限らない形での反大学、これまでの大学批判を含めてのものですけれども、それが、3月ごろから構想されだして、4月に始まっていると思います。学生たちの自主講座は、それと平行してありました。4月に新入生が入るわけですね、新入生たちも大学の正規の授業はないわけですが、しかし、新入生自身がそれぞれ、自分たちの勉強のスケジュールを立てて、これも自主行動だと思いますが、それがありました。私としては、1月、2月段階のクラス討論を聞いたり、あるいは何かしゃべれと言われてしゃべった記憶もありますし、それから反大学の運動の中では、私は、学生が闘争していても勉強するということが大事だと思っておりまして、闘争する者が勉強することは賛成で、ドイツ語の講座を分担しまして、そのほか、新入生などが4月以降に、それぞれ独自に作っていた自主講座でもドイツ語を教えたことがあります。

 質問: それは、今までの大学の正規の授業といいますものと、なにか違うようなところがあったんですか。

 野村: おもしろいことには、かえって活発なといいますか、学生諸君の関心が生き生きと動く面があって、ドイツ語といったような、ある意味では授業は堅苦しいものですけれども、それを生き生きと展開できた記憶がございます。

 質問: ところで、今から振り返られまして、昭和44年1月からの、いわゆる京大闘争という学生の提起した問題については、どういう点を明らかにした運動だとお考えになっていますか。

 野村: 一口で言うことは大変難しいのですが、とにかく、東大では、学生処分をきっかけとして、京大では寮の問題をきっかけとして、つまり、学内での大学の権威主義的な構造といいましょうか、結局は、大学は理性を根拠としてあるべきだと言いながら、最終的には、問題は理性によってではなく、権威という名の暴力を背景にしたものによって、ものごとが進行している大学というものについて、それを非常に明確にしていった、そういう大学の実態を明確にしたのが、当時の運動だったと思います。さらに、大学の権威構造につながって、現代の資本主義、現代の社会構造までも問題にしていこうとしていた。そういう運動というものは、ある意味では、画期的といいますか、非常に新しい運動だと思います。これまでの社会変革の問題にしても、新しい側面、それだけにまた、それは新しい困難をも非常に含んでいると思いますけれども、とにかく現代の社会、一口にこう言うとおかしいかもしれませんが、日本について言っても、韓国とのつながりから言っても、各所での公害の問題から言っても、きわめて非人間的なものを根底において存在している現代の社会、それに対して、それを変えなければどうしようもないということと、しかも、同時にそれを変える方向というものが、今なおも模索の状態である。その2つを明確にしてきた運動であったというふうに一応考えますけれども。

 質問: 証人は現在も京都大学におられるようですが、そういった形でいろいろと問題提起がされたようですが、そういうことを受けて、具体的に京都大学が、その後変わったとかいうようなことはあるわけでしょうか。

 野村: 総体として変わったということは、まずほとんどないであろうと思います。個別的に言えば、先ほど一番最初に寮の三項目要求の話が出たわけですが、第一の寮を増やすということは全く実現しておりません。その後、7年経っていますが、寮は増えていないわけです。財政公開も、その年、いわば申し訳のように決算書だけは公表されたのですが、それも単に項目別にこれがいくらと書いてあるだけで、それを資料として、大学構成員が大学の財政を批判的に考えていく素材になるようなものではない、単に、一片の形式的な決算書にすぎないわけですけれども、それが発表されただけであって、いわゆる財政公開なるものは進展していません。20ヵ年長期計画と言われたものは、その場では消えてしまいましたけれども、その後、各学部で増築が行われたり、あるいは、学科の増設が行われたりしておりますけれども、それも全大学構成員が本当に大学の将来を考えて、総意をもって考えていくという形のものではなく、各学部で多少その場その場で考えながら、増築なり、拡張なりをしているという形になっているだけで、全く進展はないと言わなければならないと思います。

 質問: 大学側が1月21日から1月23日まで、俗に言う「狂気の3日間」の中で、いわゆる占拠をしている学生部の封鎖を実力で解除したり、あるいは、大学本部そのものを逆封鎖するというか、閉鎖するというか、そういう処置をとったということがありましたね。

 野村: はい。

 質問: その時に、これは俗な話ですが、実際に大学当局が、どれほどのお金を使ったかということについて、証人自身お調べになったことはありますでしょうか。

 野村: それは、正に決算書を見てもわからないわけでして、明確には言えないわけですけれども、当時、6月に奨学金の問題がありまして、仮に、育英会に対して、すぐ成績を出すことをしないで、成績を凍結しておいて奨学金が打ち切られたなら、大学がしばらく肩代わりして貸付けることができるかと、そういうことを考えてみようとしたことがありまして、大学の財源というものはどの程度自由がきくものか調べたことがあります。その時確か、1月の「狂気の3日間」には、大学は数千万円のお金を使ったということを調べたことがあるんですが、細目は全く今記憶しておりません。

 質問: 数千万円ということですが、それは主にどういう費用なんですか。

 野村: 大学が公言しているのは、ヘルメットを購入したということですね。

 質問: ヘルメットだけで数千万円というのは、あれですね。

 野村: 当時は、大学構内にあった資材は自由に使わせるということで、非常にたくさんのベニヤ板、その他が使われたはずです。それも含まれているのか、あるいは、何千人が3日間学内で寝泊りをし、炊き出しを行っていたはずですが、それも含まれているのか、その辺の詳細はわかりません。

 

  この後、若干の検察官からの尋問もあるが、それを除けば、以上が野村さんの証言の全てである。野村さんから見た、寮闘争にはじまる京大闘争が、教官の動きも含めて語られているが、野村さんの証言での特徴は、学生の封鎖、占拠というあの時代に始まった闘争戦術が、単なる闘争戦術として語られるのではなく、当時の国際的(世界的)な動向の中で、「非暴力直接行動の1つ」として、普遍的意味を与えてくれていることであろう。当時、私たちは、野村さんを始めとする何人かの教官の証言を裁判官に聞かせてどれだけの意味があるかとも思ったが、結果的に見れば、他大学の大学建物に篭城して逮捕された学生がほとんど実刑だったのと比較して、京大の場合殺人未遂までついて(結果的には落ちたが)、全員執行猶予だったのは、野村さんたちの証言のお陰だったと言えるかもしれない。

 

3 

  野村さんには、研究室で話しただけでなく、色々なところへ連れて行って貰った。覚えているのは、百万遍の「梁山泊」や、高野の「ひばな屋」(ふぐ)で、いずれも高い店だが、京大から歩いていけるところで、夕食時にかかった時間帯に、食事を兼ねてお酒を飲みにいくのである。野村さんは、日本酒が好きで、食べ物はおつまみ程度で、専らゆったりとお酒を飲んでいた。三条で偶然会ったときも、近くの行きつけと思われるそば屋さんに誘われたことがあった。野村さんは、そばをあてに日本酒を飲むという通でもあった。

  野村さんとどんな話をしたのか、あまり覚えていない。野村さんは、どちらかというと自分で喋るというより、人の話を聞くのが好きで、特に闘争後に闘争の具体的な報告を聞くのが好きだった。色々な党派がそういう報告をしているようで、野村さんはそれを比較しながら論評していた。

  野村さんは、自分のことはほとんど語らなかった。実は、野村さんは、私と同じ東京の上野高校の出身なのだが、私が、話を高校時代に振っても、野村さん自身の上野高校時代の話を喋ってくれたことはなかった。また、森毅さんが、本に書いているような野村さんにまつわるエピソード、例えば、60年安保のころ学生処分の問題で学内が揉めていたとき、当時の木村教養部長が野村さんに「きみは京大の教官でありながら、京都大学の方針に反対するのか!」と言ったのに対し、野村さんが「私は日本国民ですが、日本政府の方針に反対します!」と切替したという話(「僕の京大物語」福武文庫)などは、有名な話なのだが、野村さんの口から、直接聞いたことはなかった。1967年10月8日の羽田闘争で、当時京大文学部1年生の山崎博昭君が死亡したが、一人が死亡し、多数の負傷者、逮捕者を出した10・8闘争の救援会を水戸巌さんなどといち早く立ち上げたのも野村さんだったが、その話は、最近になって水戸巌さんの奥さんの水戸喜世子さんから聞き、私は初めて知ったのであり、当時野村さんから聞いたことはなかった。水戸喜世子さんからその話を聞いて、68年の10月に京大で山崎君の追悼一周年集会が開かれたが、そこで野村さんが講演したのも、野村さんのそのような関わりの流れの上だったことに、思い当たった。要するに、野村さんは自分がこういうことをしたとか、しているという話を自慢げにする人ではないのである。

 

4 

  私と野村さんが共通の感覚をもって好きだった人に、ローザ・ルクセンブルクがいる。

  ローザは、1870年ポーランド生まれの、ドイツの社会主義者、革命家であるが、1919年1月のベルリン蜂起に参加し、政府軍によって虐殺された。ローザに私が共感する理由の1つは、彼女のボリシェビキ批判である。ロシア革命の意義を高く評価しながら、ボリシェビキの独裁に鋭い批判を加えた。日本の新左翼のほとんどがスターリン主義批判をレーニンに依拠して行うのに対し、私(たち)は、そのレーニン(前衛主義)を批判し、徹底的に労働者大衆に依拠するローザを支持した。当時、私たちが愛読していた本の一つに「ローザ・ルクセンブルク選集(現代思潮社)」(全4巻)があるが、その翻訳者の一人が野村さんだった。

  ローザに共感するもう一つの理由は、彼女の獄中書簡である。政治論文とは別に、自然(花や小鳥等)を愛する彼女の感性あふれる獄中書簡は、読む者の心を捉えた。ローザについては、私が唯一受けた野村さんのテストで出題されたことがあった。これは、私が教養部の単位をのこしたまま学部(文学部)に上がった後の話であるが、残した外国語の単位をとるために、野村さんのドイツ語のテストを受けたことがあった。野村さんのことだから、実際に試験を受けなくても単位はくれたと思うが、私はそういうことはやりたくなかったので、テストを受けた。問題は、いくつかのドイツ語の短文の翻訳とローザについての自由作文であった。辞書持込可だったので、短文の方は何とか訳し、自由作文は、当時読んでいたローザの「資本蓄積論」について書いた。出来は悪かったと思うが、野村さんは単位をくれた。このように、ローザ・ルクセンブルクについては、私も色々と本を読んだりしていたので、野村さんとの話の中に、しばしば出てきた。

 

5 

  前にも書いた私が被告人となった時計台裁判の一審判決が1978年であり、毎回傍聴してくれた野村さんは、判決で執行猶予がついたことについて、人一倍喜んでくれた。その年に私は文学部卒業後、学士入学していた経済学部も卒業し、以後京大に行くこともなくなり、野村さんとも会う機会もなかった。

  一方、野村さんは1994年に京大を定年退職した後、梅花女子大にいったようであるが、その頃のことは、私は知らず、私が最後に野村さんに会ったのは、たまたま行った奈良の石舞台であった。何年のことか定かではないが、久しぶりにお会いしたことで、近況などお話したかったが、野村さんは奥さんとお子さん同伴で、二言三言挨拶を交わしただけで、その時は別れた。その後、98年に野村さんの訃報を聞くことになった。

  考えてみれば、私が弁護士になってからは、一度も野村さんとは会っておらず、学生時代に奢って貰ったばかりで、お返しが出来ていないことが残念である。一度私の奢りで一緒にお酒を飲み、お礼を言いたかったと思う。

  野村さんは、私が学生時代を過ごした京大の教官の中で、心を許し、最も信頼した人であり、生涯私にとって忘れえぬ人である。

  この原稿は、2017年も押し詰まった12月19日に書き上げた。何とか年内にと思っていたので、実現できて嬉しい。この年末、年始は、ゆっくりと野村さんを偲びながら、野村さんの好きだった堀田善衛の「ゴヤ」でも読みながら過ごそうと思っている。

                                   2017・12・19

 

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