忘れえぬ人々(その2 高野嘉雄)

     

         1946・11~2011・9 弁護士。甲山事件での無罪判決をはじめ、多くの無罪を

         とる一方、情状弁護の分野でも秀でている。

 

1 大学時代のこと

  高野さんは、東京の新宿高校を1965年に卒業後、翌年京大の法学部に進学している。68年に京大に入学した私の2年先輩になるわけである。東京の公立の進学校から京大に来たという点で私と高野さんは共通の道をたどっている。

  もっとも、私に大学時代の高野さんの思い出があるわけではない。学部が違い、学年が2年違うと、大学で顔を会わせることもほとんどないというのが普通であろう。

  私が教養部の1回生で、高野さんが法学部3回生のとき、京大で大学闘争が始まった。

 69年1月の学生部封鎖闘争で、東大では安田講堂の死守闘争が始まっていた。

  その京大闘争で、私は寮闘争委員会、教養部闘争委員会などで活動したが、当時高野さんのいた法学部は自治会を代々木系がとっており、他学部がストライキに入ったり、バリケードを組んで闘争に入っても、法学部はそういうわけにはいかなかった。少数派の全共闘派は法学部闘争委員会(J闘)を作って活動していた。当時J闘のメンバーを数名知っていたが、その中に高野さんはいなかった。後に、J闘の人に高野さんのことを聞く機会があったが、その人の話では、高野さんは、「俺は弁護士になるために今は勉強するのだ。」といって闘争に加わらなかったそうである。それでも、代々木系との論争になると、どこから来たのか、高野さんも議論に加わり、人一倍大きな声で、喋っていたそうである。この話はいかにも高野さんらしいエピソードである。

 

2 修習生時代と弁護士になった頃のこと

  高野さんが司法試験に合格したのは1971年10月である。翌年4月から2年間司法修習をしており、その時期の高野さんのことは本人からも他の人からも聞いたことはないが、当時修習生の中では、「反戦法律家連合」(略して「反法連」)の活動が活発に行われていたことから、高野さんも、目標としていた司法試験に合格し、水を得た魚のように、取調べ修習拒否など反法連としての活動を生き生きとしていたと思われる。

  そして、その修習時代に知り合ったのが、同期の浅野博史さんと上野勝さんで、高野さんを含めて、この3人はいずれも~野という姓であることから、後に「三野」と呼ばれ、大阪で同じ法律事務所に勤務することになる。そして弁護士になったとたんに上野さんのつながりで受任することになったのが甲山事件である。(甲山事件への高野さんの関わりについては後に詳しく述べることにする。)

 

3 浅野・高野法律事務所のころのこと

  高野さんは、上坂合同法律事務所に4年間勤務したのち、1978年に浅野さんと浅野・高野法律事務所を開設し、独立する。当初は上野さんを含めて三野で事務所を開く予定だったようであるが、実際には、上野さんは一人で独立し、浅野さんと高野さんが組んで事務所を持つことになった。

  私は、甲山事件の支援活動をしていたことから、弁護団の色々な事務所に出入りしていたが、高野さんのいる浅野・高野法律事務所が一番行きやすく、実際にも一番多く行っていた。

  私が司法試験を志したのは、甲山事件の一審無罪判決(1985年)の後であるが、甲山事件の支援をし、弁護団会議などにも出て、弁護士の活動などもみていたことが、そのきっかけとなったことは間違いない。高野さんに弁護士になることを勧められたわけではないが、高野さんの弁護活動が一番面白く、私にとって、弁護士という仕事に興味をもったのも高野さんが影響している。

  私が、司法試験に合格し、2年間の修習期間を終え、弁護士事務所に就職するとき、高野さんが誘ってくれたので、迷うことなく浅野・高野法律事務所に行くことに決めた。他の事務所には事務所訪問すらしたことはなかった。

  このようにして、私は浅野・高野法律事務所の第1号のいそ弁になった。

 

4 浅野・高野法律事務所でのいそ弁のころのこと

  私が、浅野・高野法律事務所に入ることについては、当初浅野さんは反対のようであった。事務所としていそ弁を必要としていたほど事件を抱えていたわけではなかったし、実際にいそ弁を探していたわけではなかったのである。たまたま、私が司法試験に合格し、弁護士になったことから、高野さんが私を引っ張るためにいそ弁を雇うことを決め、(浅野さんの意思など無視して独断で決めたようである。)浅野さんとしては、私がどうこうということではなく、いそ弁を雇って経済的にやっていけるか心配であったのだろう。

  当時、いそ弁の給料は年間で約600万円くらいで、私も、浅野・高野法律事務所とその位の金額で契約し、入所した。後で知ったことだが、当時浅野さんも、高野さんも事務所からの給料として月額50万円を貰っていただけなので、私の給料とさほど変わるわけではなく、かつ私はいそ弁として事務所事件をするだけでなく、個人事件は自由にでき、その収入は全部自分のものになるので、月によっては私の方が収入が多いこともあったのである。不思議な事務所である。経営者たるボス弁の良いところは、経費を自由に使えるくらいのことであったろうが、それも限度があり、特に毎日のようにお酒を飲みに行く、高野さんの酒代は、あまり酒を飲まない浅野さんとの関係で、全額経費として事務所が出すわけではなかったであろうから、高野さんは一体その酒代をどっから

 出していたのか、これも不思議である。

 

5 ある少年事件

  いそ弁になってほどなく、高野さんから、ある少年事件をやらないかと言われた。和歌山の威力業務妨害事件で、家裁の書記官から、この事件は付添人をつけたほうが良いといわれ、家族から高野さんに依頼のあった事件で、高野さんは何故か自分でやらず、私にふってきたのである。それも事務所事件としてではなく、個人事件でいいということで。高野さんの話では、これは冤罪事件だから、必ず不処分(成人の無罪)になる、勉強になるからやってみないか、というのである。

  事件は、ある高校の文化祭にバイクで乗りつけ、文化祭を妨害したということで、仲の良い3人が逮捕され、警察では3人とも認め、家裁に送られ、審判日も決まっているというものだった。高野さんが何故「不処分」ということに確信を持っていたのか(この段階では高野さんは少年に会ってもいなかった。)解らなかったが、とりあえず少年に会ってみようということで、同期の松本(康之)弁護士を誘って行ってみた。鑑別所での接見では、少年はおとなしく、いろいろと尋ねてもボソボソと答えるだけで、はっきりしなかったが、事件に関与していないことは何とか聞き出すことができた。何故警察では認めたのかと聞くと、犯人と決め付けてくる警察がこわかったから自白してしまった、ということも解った。

  高野さんは、自己の少年事件の経験から、少年は警察での取り調べで虚偽の自白をしやすいことを知っていた。(高野さんは東淀川の老女殺害事件で、犯人とされた少年の不処分を勝ち取っている。)そんな話を聞きながら、私と松本弁護士はこの事件に取り組んでいった。

  少年の話を聞く中で、この事件の日、少年に姪の運動会に行ってビデオカメラを撮っていたというアリバイがあることがわかった。そして、家族からそのビデオを見せてもらったところ、撮影者である少年は映っていないものの、少年の声が入っていることがわかり、それを有力な証拠として審判では不処分を取ることができた。審判後、記者会見を行い、当日の夕刊にその記事が載り、弁護士になったとたんに高野さんから、一つの勲章を貰うことになった。

 

6 ある民事事件  

  高野さんといえば、刑事事件で有名で民事事件のことはほとんど語られたことがないと思うが、私が浅野・高野法律事務所のいそ弁時代に経験したある民事事件を紹介する。

 これもいかに高野さんの勘がするどかったかの例である。

  事件は、息子の金融機関からの借入を保証したということで訴えられている母親の件で、保証を否認している母親の代理人に高野さんと私がなった。その母親は高齢で、保証人になった覚えはないというものの、忘れたかもしれず、原告の金融機関から提出されている証拠は、印鑑証明を添付した実印の押印と署名のある書類があり、保証意思の確認は電話ではなく、自宅まで行って面談したというものだった。法廷はほとんど私だけで行き、私なりに、この事件はなかなか難しいと考え、署名部分の筆跡鑑定でもやろうかと考えていたところ、高野さんから1つのアドバイスがあった。担当者が自宅まで行って、母親に会ったというのなら必ずその時写真を撮っているからその写真を提出さ

 せろ、というのである。そんな写真が出てきたら決定的に不利だと思ったが、高野さんは自信を持って、とにかくその写真を出させろ、というのである。そこで、相手方にそういう写真があるなら証拠として提出するように言い、その結果出てきた写真を見て、ビックリ。写真に写っていた人物は母親本人ではなかったのである。高額の借入の保証を母親に言い出せなかった息子が言わば母親の替え玉を立て保証人にしていたのである。金融機関の担当者はそんなことは知らないから、自宅まで行ったことから、そこにいるのは当然母親と思い処理していたのである。

  こんな経過でこの訴訟は筆跡鑑定などやるまでもなく勝ってしまったが、後で、高野さんに何で分ったのか聞いたが、ニヤニヤ笑うだけで、教えてくれなかった。その時は高野さんというのは何て勘の鋭い人だろうと思って感心したが、後になって、もしかしたら、この事件の元々の依頼者は息子の方で、息子から替え玉を立てたことを聞いていたのかもしれないと思うようになった。それだったら、最初から教えてくれていたらよいとも思ったが、このようなやりかたが高野さん一流のやり方で、訴訟の展開の妙を私に楽しまさせてくれたのかもしれない。

 

7 ヤクザとの対決

  これも浅野・高野法律事務所に入って、間もないころのことだが、高野さんが受任した事件で相手方がヤクザの件を一緒にやることになった。事件の内容はあまり覚えていないが(確か手形の回収事件だったような気がする)、依頼者である会社で相手方と会うことになった。やって来たのは、バリッとしたスーツ姿の体格の良い男で、何人かの連れを伴っていたが、私たちの前に坐ったのはその男だけで、連れの男達は背後に立ったままであった。その男は、名前を名乗ったが、名刺を出すわけではなく(組の名刺など出したら、それだけで恐喝になってしまうことは後で聞いた)、言葉使いは丁寧であったが、なんとなく威圧感というか迫力があった。高野さんに後で聞くと、「あの男は相当な大物だよ」ということであった。高野さんは、それらの男達を前にして、一歩も引かず、自分の主張を述べ、最終的には、こちらに有利な内容で示談に持ち込んだ。この場では、私の出る幕はなく、終始黙って坐っているだけだったが、この時の高野さんの対応を見て、ヤクザとの交渉はこうやってするのか、という見本を見せて貰った気がした。私も学生時代から何度も修羅場を経験しているため、ヤクザを前にしても、別に恐怖感等は抱かなかったが、高野さんは、度胸があるというか、言葉も普通で、遜ったり、妥協したりすることなく、自分の主張を通し、最後は落としどころというか、多少の譲歩をして示談に持ち込むという絶妙なかけひきであった。

  相手がヤクザの事件といえば、同じころに別の弁護士と一緒にやった事件があった。その事件で表向き会社だが、実質は組事務所のようなところへ強制執行をするため執行官を連れて行ったことがあった。そこはビルの一室だったが、そこに至る階段は人が一人通れるか位の狭いところで異様な雰囲気の下、部屋に入って、執行官がこれから強制執行に入る旨の宣言をするやいなや、そこにいた組員と思われる者がいろいろなところに電話を掛け始め、いかにも応援を頼んでいるようで、続々と人が集まってきそうであった。私は、執行官が一緒だから、変なことはされないだろうと思って、差し押さえるべきものを物色していたが、何となく不気味な感じはあった。途中で気付くと、一緒に部屋に入ったはずの弁護士がいなくなっていた。無事執行が終って、外に出ると、その弁護士がいたので、「何をしていたのですか。」と聞くと、「何かあったときのために交番に連絡に行っていた。」と言った。警察に連絡するなら、事前にしておけば良いし、執行に入ってから、警察に連絡しておいた方が良いと思ったのなら、連絡が済み次第、執行場所に戻ってくるべきと思ったが、私は何も言わなかった。怖くて、現場から逃げたのだろうと思った。その事件は元々その弁護士の事件で私は手伝っていただけであるが、高野さんの対応を思い出し、弁護士にも色々いるということを痛感した。

 

8 少年事件のやり方

  少年事件で高野さんが「会えて、よかった」(黒田清著)という本を使うことは、良く知られている。事務所のカウンターにもこの本が山積みに置かれ、誰でも買えるようになっていた。話を聞いた弁護士がわざわざ買いに来たこともあった。

  この本は、黒田さん(読売新聞社会部)が記者時代に出会った様々な人について書いたもので、差別や貧困や逆境にも負けず生きている人々の話である。高野さんは、少年事件で、鑑別所にいる少年にこの本を差し入れ、感想文を書かせたりしたようであるが、この本の使い方について、高野さんが私に教えたことはなかった。自分で考えろというのが、高野さんの基本的な指導方針である。私は、まずこの本を読み、受任した少年事件(高野さんの一年位のいそ弁時代に3件あった。)で、この本を使う中で、次のような方法を確立した。

  ① まず、この本を差し入れる。差し入れの際、この本はこういう本だから是非読みなさい、と

   いうことは言わない。普段本を読まない少年でも、鑑別所では時間があるためか大体読む。こ

   の本は、中が25のエピソードに分かれており、普段本を読みなれていない者にも読みやす 

   い。

  ② 事前に感想文など書かせない。(この点が高野さんのやり方と異なっていた。)全てぶっつ

   けで審判の日に少年にたいする付添人の質問の中で、この本を読んだ感想を聞く。(このやり

   方は一種の賭けであるが、何故か一回も失敗したことはない。読んでいない、とか、読んだけ

   ど何も感想はないとか答えた少年はいなかった。)

  ③ 質問の中で、読んでいることを確認した後、印象に残っているエピソードを聞く。

   ここで、少年によってとりあげるエピソードは異なるが、私の経験では、多くの少年は「泳 

   げ!人生の波をけって」を選ぶ。この話は、小児マヒの女子高校生が、クラス対抗の競泳の選

   手に選ばれ、4人のリレーのアンカーとして泳ぐというものだが、この話のどこが印象に残っ

   ているかとか、読んでどう思ったかとか質問していく中で、ぼつぼつと「読んで涙が止まらな

   かった。」とか「プールに飛び込んだ校長先生はえらいと思った。」とか、「泳げないことが

   わかっていて、この子を選手に選んだクラスの子はいじわるだ。」とか、「ビリになりなが

   ら、最後までゴールしたこの子は立派だし、それに対し、子どもに駆け寄った母親、拍手で迎

   えた回りの人々に感動した。」とか感想を述べる。

  ④ そのようなやりとりの後、「そこで自分を振り返って、どう思った?」と質問する。

   子どもによって表現は異なるが、「自分が恥ずかしくなった。」という趣旨の発言を引き出して、

   終える。それが、この本を使って、少年から引き出したかった目標である。

    私たちがやる少年事件は、ほとんどがシンナーを吸ったとか、コンビニで万引きをしたとか

   事件である。それらの非行をたいして悪いことをしているという感覚なしにやっている。捕ま

   って、鑑別所に入れられて、反省はするが、それがどこまで本気かわからないというケースが

   ほとんどである。そのような少年事件に関わるなかで、この事件を契機に少年に如何にいまま

   での自分の生き方を振り返り、今後の生き方を真剣に考えられるようになるか、そのためにこ

   の本を使うことを考えたのが高野さんだと思った。少年の実際の体験ではないが、本を読んで

   出会った人々と自分を比較することによって今までの自分を振り返る、そのような契機にこの

   本はなるのである。

    高野さんが法廷で涙を流すのは有名な話であるが、私も「会えて、よかった」を使って、少

   年と対話するときに何度も泣いたことがあった。演技ではなく、自然にそうなるのである。 

   「会えて、よかった」をどう使っているかという話は私から高野さんによくしていた。高野さ

   んは私の話を聞いて、うれしそうにしていたのが印象に残っている。

  

9 高野さんと甲山事件

 (1) 武勇伝

    甲山事件における高野さんの働き、関わりで語ることは多いが、まず、私が見たわけではな

   いが、後に聞いた高野さんのとっておきの武勇伝について触れよう。

    私が甲山事件の救援運動に関わる以前の話である。

   山田悦子(旧姓沢崎)さんが園児殺害容疑で最初に逮捕されたのは、1974年4月である。

   この年、月が高野さんが弁護士登録して弁護士として活動を始めた年、月と一致するのは、偶

   然とはいえ、運命的なものを感じる。山田さんの弁護人についたのは、当初組合の関係で日共

   系の人だったが、途中から、弁護士に成りたての高野さんたちに変わる。甲山学園の同僚職員

   で山田さんの救援運動の中心になっていた西定春さんが、伊丹のべ平連時代に知り合った上野

   さんに依頼し、上野さんを通して、同期の高野さん、浅野さん、麻田さんなどが加わり、弁護

   団を組むことになるのである。そして、山田さんの処分保留での釈放後、この弁護団が取り組

   んだのが、国(検察)と県(警察)を相手にした国賠であった。この提訴が同年の7月であ

   り、釈放後わずか3ヶ月後という異例のスピードであった。
   この国賠提訴については、後に再逮捕を導いたとして批判されることもあったが、当時の高野さ

   んたち弁護団からすれば、山田さんの無実、不当逮捕は明白であり、イケイケの雰囲気だったので

   あろう。

    実際、この国賠進行中に不起訴を勝ち取り(1975年9月)、事態は良い方向に進んでいるか

   に見えた。そのような中、翌76年に、園長の荒木さん、同僚の西さんなどの証人調べが始まった

   矢先の出来事であった。

    国賠が山場にさしかかっているということもあって、傍聴席もほぼ支援者で満席という状況の 

   中、傍聴席に警官らしき者がいることに気付いた支援者がその者らの追及を始めたところ、その者

   らは、法廷から逃げ出し、裁判所の隣にある検察庁に向かって走り出した。彼らを追った者の先頭

   に立ったのが高野さんだった。高野さんとしては、こういう問題は支援者にやらせるよりは弁護士

   である自分が動いた方が良いと判断したのであろう。追いついた高野さんは、(逃げた3名のうち

   の)2名の胸倉を掴み、氏名、所属などを明らかにするように迫った。その迫力たるやすさまじ

   いものがあり、うろたえた警官は「逮捕するぞ」と脅したが、そんな言葉にひるむ高野さんではな

   く、追及の結果1名の氏名を明らかにさせることに成功した。

     この時の高野さんの行動は、後に法廷で被告代理人から、問題にされたこともあったよう

   だが、警官の傍聴目的が明らかにされず、公務とも言えないことから、高野さんの行動が「公

   務執行妨害」にもあたらず、殴って怪我をさせたわけでもないから、「傷害」にもならず、結

   局不問に付されたようである。

    この出来事は、後から考えれば、弁護士のとった行動としては異例のものであるが(高野さんと

   しては、意識してパフォーマンスとして行ったわけではなく、自然に体がそのように動いてしまっ

   たということだと思うが)、高野さんに対する甲山事件の支援者の絶大な信頼をもたらした。(2) 高野さんは甲山裁判の全てに関わった。

    山田さんが再逮捕されたのが1978年の2月であり、その年の6月から刑事裁判が始まる

   が、私もそこから関わったために、それ以降の高野さんの活躍は直接自分自身見聞きした体験

   として語ることが出来る。

    なにしろ、高野さんは、甲山裁判の全てに関わった。甲山裁判では、三大争点というものが

   あった。園児証言と自白と繊維の相互付着の三つであるが、検察は、この三つを重要証拠とし

   て、山田さんの有罪を立証しようとしていた。弁護団としては、その三大争点につき、担当責

   任者を決め(園児証言については、5人の園児のそれぞれにつき担当者を決めた。)、対応し

   たが、高野さんは、その三大争点の全てについて、他人に任せておけないとして、関わった。

    自白問題では、自白過程についての山田さんからの事情聴取を担当し、山田さんに言わせれば、

   高野さんの聴き取りは、警察の取調べよりきつかったそうである。高野さんにしてみれば、山田さ

   んの捜査段階の自白は、虚偽自白であるという確信はもっていたものの、自分が完全に納得するま

   で、詰めておきたいということでやっていたのであろう。自白問題については、後に原田さんが引

   き継ぐことになる。

    園児証言については、高野さんは個別園児を担当することはなかったが、園児班の会議には必ず

   出席し、激烈な議論を主導した。園児の目撃供述をどのようにして崩していくか、非公開の中で行

   われた園児の証人調べでの弁護団の対応についての議論は夜を徹して行われ、その中心には必ず高

   野さんがいた。

    繊維の相互付着の問題では当時弁護士に成りたての33期のメンバー(小坂井、川下、浅野

   、梶谷、高木、内橋など)を繊維班として組織し、高野さんはそのキャップになった。この時の高

   野さんのやりかたの厳しさも有名で、鑑定証人に対する尋問を担当することになった弁護士(誰と

   は言わないが)はインポになったり、十円玉大のはげができたそうである。この繊維問題について

   は、弁護団としての調査もよくやり、私も高野さんに同行して京都の島津製作所や大阪の住友化学

   を訪れたことがある。繊維問題については、後に高木さんが引き継ぐことになる。

 (3) 甲山裁判における高野さんの弁護活動の基本的スタンス

    甲山事件不当再逮捕10周年集会で高野さんは甲山裁判の弁護活動、あるいは弁護団と救援会の

   関係について次のように述べている。

    「甲山事件の弁護活動というのは、従来さまざまな冤罪事件について弁護活動がなされたわけで

   すけれども、それら各種事件の一つの集大成としてあったんではないかと感じます。

    これは、さまざまな事件の弁護団に参加した人々、あるいは救援会の関係で弁護活動に密接

   に関与した人々が、それぞれの冤罪事件の弁護方針等についてある程度知っているあるいは検

   討しているという中で、それらの弁護団活動における基本的な問題点を認識していたことでは

   ないかと思うんです。

    よく、誰の目から見てもこの証拠はデッチ上げだとか、信用性がないとか、極めて簡単に言

   い切ってしまう。それなりの不利益さがあるけれど、それをおおいかくして、その証拠はウサ

   ン臭いとか、極端な場合では警察官がつくりあげたものだと主張する場合があるわけです。

    が、甲山事件については、とにかく山田さんはやっていないということについては誰の目か

   ら見ても明らかであると、弁護団はそういう確信を持っていると、そのことを裁判所にわから

   せるためには不利益な事柄でも絶対に逃げてはいけない、そういう方向づけを行いました。

    例えば鑑定とかで、こちらに有利な鑑定がでたからといって、それに依拠しきってはいけな

   い。自分自身がどう考えるのか、自分自身が見て、それが似ていると感じるのか否か、自分自

   身が得心するまで論理をつめていく。それを弁護団の中で議論をしつくす。そこでごまかした

   時に裁判所はどう受け止めるか、被告人が有罪だから弁護人は議論を逃げたと受け取る。そう

   いう認識が私どもにあったわけです。甲山事件については、そのような立場から、弁護団会議

   では非常に熾烈な議論がされました。

    次に、指摘しておきたいのは、弁護団と救援会の関係です。

   甲山事件の弁護団会議には救援会の片見君が常に参加して、終始弁護団活動というのがなされ

   てきました。

    救援会の関係の方を弁護団会議に入れるという点については、さまざまな点から問題になる

   わけです。弁護士は一般的に言うと、そういう運動の人たちについてはご遠慮願いたい、とい

   うのが正直な気持ちです。なぜそうなのかというと、えてして、救援会とか、そういう活動に

   従事する人たちは命題が先にある。山田さんは無実だ、だから山田さんに不利益な証拠はある

   はずがない。不利益なようにみえるけれど、検察官がそういうふうに脚色しているんだ。ある

   いはデッチ上げているんだ。こういうことを言い易いわけですね。

    思っているのは、それでよろしいんですけど、弁護団がしなければいけないのは、現実の法

   廷に表れてくる一つ一つの証拠について、具体的にそれはどうなのか、自分は率直にどう思う

   か、そういう率直な見解、それを冷静なかたちで議論しなければいけない。その議論の中で、

   山田さんに一見不利益な意見を言うような人があったとしても、不利益だからということで罵

   倒したり、ナンセンスだとすることは許されない。救援会の人々はえてしてそういう傾向に、

   従来の例からいうと、陥り易いという経験的な結論めいたものもあって、救援会関係の人々の

   参加については、ご遠慮願うというのが、一般的な傾向だったわけです。そして、議論する場

   合でも、弁護団とは違う立場という形でそこに出席して意見を言うと、こういう関係だったわ

   けです。

    けれども、甲山事件の弁護団会議は、事実認定には素人も玄人もないという立場から、率直

   な意見交換がなされてきました。

    これは、従来から救援会の行動・組織のあり方をめぐってさまざまな紆余曲折がありました

   けど、当初の段階から比較すると、甲山救援会というのは極めて自然な、常識的な、あるいは

   生活者としての感覚から救援会を組織していこうという感覚が強く打ち出されるようになって

   きた。その中で、各証拠等に関する見解も、自分の率直な感想を言い合うという形で救援会内

   部でも展開されていたからだと思います。

    従来の弁護士同士の会議ですと、期が上だったり下だったりすると、遠慮して物が言えな

   い。偉い先生がいると、やはり物がいえない。偉い先生がどんなつまらないことを言っても、

   偉い先生が言われる限り、その意見が通るというのが従来の多くの弁護団のあり方だったわけ

   ですけれど、甲山事件については、そういう従来の弁護団の悪弊は引き継がないで済んだ、と

   思っています。

    ただし、そのかわりに内部では、非常にガラが悪い弁護士が多いので、正直申し上げてあの

   弁護団会議を聞いたらですね、これが弁護団会議かと思うような、罵倒の投げ合いですね。 

   「出ていけ」、「出直してこい」、「アホか」、「何考えてるんや」とかいった言葉がどんど

   ん飛び交う状況でした。

    それが結果的には、率直な議論を通じて、誰の目から見てもなるほどなと思う論を立てるこ

   とに成功した一つの原因になったと思っています。」

    ここで高野さんが述べていることは、私もそのとおりだと思う。そして、このような甲山事

   件の弁護団の特色を形作ったのは高野さんであり、高野さんがいなかったら、あのような弁護

   団は出来なかったと思うのである。(この点は、甲山弁護団のガラの悪さとして高野さんが指

   摘している点も含めてである。私の記憶する限り、罵倒の投げ合いとして高野さんが例示して

   いる発言は全て高野さんの言葉である。)

 (4) 差戻し第一審でのこと

    私が、弁護士として甲山裁判に関わったのは、差戻し第一審からである。

    甲山裁判は、1985年10月に山田さんに無罪判決が出た後、検察官控訴で舞台は大阪高

   裁に移り、高裁で「原判決破棄、差戻し」の判決が出たのが、1990年3月である。私は、

   高裁判決の前年(1989年)に司法試験に合格し、1990年の4月から2年間の司法修習

   に行く直前の3月に高裁判決があったのである。そして、司法修習を終えて、大阪で弁護士登

   録をしたのが、1992年4月で、神戸地裁で、甲山の差戻審が始まったのが1993年2月

   である。

    差戻審ではアリバイ関係の証人を中心に多数の証人が調べられたが、私が尋問を担当した証

   人について、高野さんとの関連で、忘れられない出来事があったので、ふれておく。

    その証人とは、死んだ園児の遺体鑑定をした溝井という大学の医学部の教授である。検察は園児

   の胃の中からほとんど未消化のみかんが発見されたとし、そのみかんは山田さんが園児を連れ出す

   ときに与えたものだという主張をしていた。その点を、検察は溝井というこの証人で立証しようと

   したのである。検察官の主尋問では、溝井は「胃を開けたら上の方(食道に近い方)にみかんがあ

   って、印象的だったので、その時警察に写真を撮らせた。」「このみかんは死の直前に食べたとし

   ても矛盾しない。」との証言をしていた。

    反対尋問に立った私は、様々な観点から、主尋問での溝井証言を崩すべく尋問していたが、その

   時私の隣に坐っていた高野さんが、さかんに私をつつき、メモを回してきたのである。そのメモは

   高野さんが走り書きしたもので、「警官に撮らせた写真を証人は今日持ってきているはず」という

   のである。その写真は今までの証拠開示された物の中にはなく、検察官に尋ねても手持ち証拠の中

   にはないとのことだった。それを、高野さんは、溝井が今日持ってきているはずというのであ

   る。何を根拠に高野さんがそういうことを言うのか分らず、半信半疑で、とりあえず証人に 

   「その写真を今日持ってきていますか。」と尋ねると、驚いたことに証人は、下に置いていた

   自分のバッグを開け、そこから一枚の写真を取り出したのである。この展開には、弁護団だけ

   ではなく、検察官や裁判官もビックリし、その写真をみんなで回覧した後、「この写真で、み

   かんはどこにありますか。」「あなたが印象的だったという胃の上の方、食道に近い方にあり

   ますか。」と質問を続けたのである。新しく出たその写真を見る限り、胃の中のみかんの位置

   は、主尋問での証言のように「胃の上の方」でもなかったし、「食道の近く」でもなかった。

   そして、写真に写ったみかんは回りにご飯粒が付着した状態で、とても「死の直前に食べた」と

   も言えないものだったのである。尋問は途中から高野さんに代わり、追及は続いた。証人の主

   尋問での証言の信用性が完全に崩れた場面であった。

    終了後、高野さんに証人が何故今日写真を持ってきていると思ったのか聞くと、学者というの

   は、法廷証言の前には資料を整理し、目を通すなど準備をするもの。  

    そして、それらを持ってこないと落ち着かないものだ。ということであった。証人が資料が一杯

   入っていると思われるかばんを足元に置いたのを見て、写真もあの中にあると確信したそうであ

   る。

 

10 高野さんのこと

  高野さんが亡くなってもう6年が過ぎた。今、私が思い出す高野さんの弁護士としての活動を私自身のことと関連して、いくつか述べてきた。これらを書いてきて、高野さんの弁護活動で気付いたことをまとめてみる。

 (1)高野さんは勘がするどい。

    例としては、今までいくつかあげているので判ると思うが、この点は他の弁護士の追随を許さな

   いものである。問題はこの勘のするどさを高野さんはどこで身に着けたかであるが、天性のものだ

   と思うが、あえて言えば、高野さんの物事に対する追及のしつっこさ、発想の豊かさ、自由さなど

   から導き出されたものという気がする。

 (2) 高野さんは情が深い。

    この点も、少年事件のやり方などで分ると思うが、高野さんは少年事件に限らず、成人の事件で

   も同じで、被告人と「共に泣ける」弁護士である。冤罪事件における「闘う弁護士」であると共

   に、情状弁護の分野でも秀でていた。

 (3) 高野さんは「得心」を大事にする。

    この点も、甲山事件での高野さんの発言でとりあげているが、高野さんは自分が納得できるか

   を、一番の基準にしており、「自分が納得できないで、裁判官を説得できるか」と思っていた。こ

   のことから、被告人に対しても、当然厳しく接することになるが、それによって被告人に反感を持

   たれるのではなく、かえって信頼関係が増すところに、高野さんの特徴があった。

 (4) 高野さんは「口から生まれた」ような人である。

    高野さんの法廷での発言を聞いていると、考えて喋っているという感じはあまりせず、思うまま

   に口から出て、それが妙に迫力があって、説得力があるという特徴がある。以前に、検察官の尋問

   に異議を出すとき、異議の理由を考えてから、立つのではなく、まず「異議」と言って、検察官の

   尋問の流れを止めて、理由はそれから考えれば良いと高野さんに教わったことがあったが、高野さ

   んのやり方はまさにそうで、立ってからも、考えながら喋るというものではなく、立石に水の如

   く、言葉が出てくるのである。この点で、高野さんは天性のアジテイター、天性の弁護士と言って

   も良いかもしれない。

 

11 私にとって高野さんとは?

  高野さんと私は、弁護士としてだけではなく、例えば9年間連続で毎年カナダにサーモン釣りに一緒

 に行くなどの付き合いがあり、それらを含めれば思い出は尽きることがない。(そういえば、私が司法試験に合格をしたときの、高野さんからのお祝いは鮎の友釣りの竿等一式だった。)

  私が、浅野・高野事務所のいそ弁になって約1年後に高野さんは、奈良に登録替えになり、奈良に行ってしまった。残された私は、浅野さんのパートナーになり、事務所名を「あけぼの法律事務所」とし

 て、その後浅野さんと共同事務所をやっていくことになるが、そういうことが可能だったのも、高野さんが大きな顧問先を私に譲っていってくれた等があったからである。

  高野さんは、私にとって、弁護士としての「師匠」である。直接教わったことに限らず、私の弁護士

 としての全ては、高野さんの背中を見ながら身に着けていったといっても過言ではない。

  私にとって、高野さんは生涯「忘れえぬ人」であり、その思い出を大切にしたいと思っている。

                            

                                     2017年9月29日

 

 1999年に一緒にカナダに行ったときのもの。(左端が高野さんで、右から2番目が私) 

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