忘れえぬ人々(その1 松下竜一)

 19372152004617。大分県中津市出身の作家で、「豆腐屋の四季」「砦に拠る」「記憶の闇」「ルイズー父に貰いし名は」など多数の作品がある。
 豊前の火力発電反対などの運動にも関わり、「草の根通信」を発行する。


        

1 出会い

松下竜一さんに最初に会ったのが何時か正確には覚えていない。おそらく、甲山事件の周年集会に講演者として松下さんを呼んで、会場である西宮の公同教会で会ったのが 最初ではないかと思う。
 松下さんは、このときのことを後に「草の根通信」(エッセイ集「小さな手の悲しみ」に所収)に次のように書いている。(タイトルは「教会の偽善者」)  
 

前日から関西に来ていた松下さんは知り合いの家に泊まり、お酒を飲んだことから、二日酔いの状態で当日を迎える。
 「・・・にわかに不安になってくる。今夜、松下センセは西宮の教会において、甲山事 件不当再逮捕六周年記念集会に講演することになっているのだ。この執拗なむかつきが 夕刻までにおさまるか・・・。
 ルイさんに連絡を取ってもらって、今夜の主催者に講演時間の変更をお願いする。こ んな有様ではとても交流会まで残って皆とつきあう気力がないので、講演のあとすぐに 九州まで帰ることにしたい。そのためには講演開始を30分くりあげていただければ、博 多行きの最後の新幹線に駆け込めるのだ。 
 「ちょっと松下センセの身体のぐあいが悪くなりましてねー」
 ルイさんが電話で告げたとたんに、相手は「えーっ、やっぱりー」といって、絶句したそうである。
 むりもない。今夜の集会のパンフレットには講師紹介があって、その最後は、<こんなに沢山の病気を持つ松下センセのことですから、ぶじ会場に現れるまで心配でなりません。祈るような思いです>と結ばれているのだ。「やっぱりー」と思いこんだのもむりはない。
 ルイさんもまさか「二日酔いで・・・」とはいえずに、「大丈夫です、講演はできそうなんですが・・・早く帰りたいんだそうです」といっている。
 ああ、なんと罪なこと。酒を飲みすぎたという軽はずみのために、真剣に準備中の主催者たちを不安におとしいれてしまったのだ。
 「えー、皆さんにちょっとおことわりします。案内のプログラムでは、弁護団の基調報告のあと講演ということになっていますが、実は松下センセの身体のぐあいが悪くなり まして、今夜のうちに帰りたいということですので、予定を変更して講演の方を先にさせていただきます。身体の不調を押して講演をしていただけますことに、心から感謝します。それでは松下センセお願いします」

司会者がそうことわって、松下センセの出番である。
「ひどくなったら、途中で中止してくださってもいいんですよ。決してむりをしないでくださいね」と、主催のKさんが耳元でささやいてくれる。ああ、なんといい人たちであろう。甲山事件という冤罪事件を永年にわたって支援している心優しき正義漢たち。その人々に、こんな心配をかけてしまったのだ。

松下センセは壇上で椅子に坐らせてもらった。日頃は立って講演するのだが、今夜ばかりは立ち続ける自信がない。むかつきの方も、薄れこそしているが、消え去ったわけではない。とうとう一日中、固形物はのどを通っていない。
 松下センセは、しばらく第一声を口ごもった。突然、衝動的に告白したくなったのである。
 「わたしの身体のぐあいが悪いということで、皆さん心配してくださっていますが、本当のことを白状します。わたしは二日酔いなのです。昨夜、酒を飲み過ぎて、いまだにむかつきがとまらないんです。こうして皆さんの前で偉そうに話ができるような高潔な 人間ではないんです。わたしは・・・わたしは・・・軽はずみで、つまらぬ人間なんです。気が小さくて臆病で、いろんなコンプレックスのかたまりなんです。ほんとにいいかげんな人間なんです。もう帰らせてください。もうお願いですから、わたしを解放してください。洋子のもとに帰らせてください。もともと、わたしは講演が大嫌いなんです」
 なにしろ、場所がいけなかった。ここは教会であり、松下センセの坐っているのが、日頃牧師さんが説教する場所に違いない。不謹慎にも、二日酔いの三文文士の坐るような場所ではないのである。背後から、磔刑のキリストの眼光が刺さるようである。
 だが、やはり松下センセは偽善者なのであった。口を突いて出たのは、さも誠実らしい第一声である。
 「えー、わたしは甲山事件に直接触れての話はできませんが、運動の中での同志の信頼とは何かいうことを軸に<孤立と信頼>という、運動に普遍的なテーマで話してみたいと思います。少し身体をこわしていまして、声に力が入りませんが御容赦いただきたいと思います」
 しゃべりつつ、松下センセの内心はかつてなく凄絶な葛藤をくりかえしていた。自分は偽善者なのだ。正体は隠して、人前できれいごとばかり口にする偽善者なのだという、日頃からの屈折した思いが、教会の演壇でいよいよ増幅され、内心を激しく波立たせている。「わたしは昨夜からけさまで、へどばかり吐いていた卑しい人間です」という告白が、ともすれば飛び出しそうで、脇の下には冷たい汗がしたたり落ちていた。おまけにいつ嘔吐が襲うかもしれぬという不安と緊張ともたたかっていた。
 かろうじて一時間の講演を終えると同時に教会を飛び出したのは、汽車の時間のこともあったが、もはや精神的にいたたまれなかったからである。
 午前一時、冷たい雨に濡れながら帰り着いた。
 翌朝、まだ大阪に残っているルイさんが安否を問うてきた。ぶじ帰り着きましたと報告すると、ルイさんは、
 「昨夜の講演はすごい講演でしたね。なんだか凄愴な感じでしたよ。みんな、もう大変感動したといっています」と告げる。
 ああ、いけない。二日酔いと必死にたたかいながらの講演が、逆にいっそう人を感動させてしまったとは、ますます罪深いことではないか。

「当分、禁酒、禁講演です。教会も鬼門です」
 しょんぼりと、そう答える。                       (19843月)

 

このエッセイの中で、講演の前に松下センセの耳元で「決してむりはしないで」等ささやいたという「Kさん」というのが私である。私の記憶の中には、このようなことを松下さんに言ったというものはないが、かといってこの場面が完全に松下さんの創作かというとそうともいえない。この日講演の前後に松下さんに付き添った私との間で何回か言葉のやりとりがあったが、そのなかの一つに、これに近いものがあったのではないかとも思うのである。松下さんのエッセイを読むと、松下さんは実際にあったことをそのまま書くのではなく、自分なりに脚色しているのだが、それがいかにもそうあってもおかしくないような雰囲気をもっており、書かれた人も決して悪い気はしないで、思わず微笑んでしまい、実際にあったことのように錯覚してしまうという効果をもっている。これも松下さんのぺンの力というものかもしれない。
 この日の私の抱いた松下さんの印象は、普段は寡黙で怖いような雰囲気を持っている一方、笑うと子どものように優しい表情になることがあり、講演で喋らせると天性のアジテイターで迫力があるというものであった。
 この講演を契機に松下さんとつながりが深く成り、「記憶の闇」につながっていくことになる。

 

2 「記憶の闇」へ

甲山事件のことをしかるべき作家に書いてほしいという気持ちは随分前から持っており、私や山田悦子さんは実際に何人かに当たったりしていた。
 冤罪事件と作家といえば、古くは松川事件と広津和郎があり、その後も狭山事件と野間宏、徳島ラジオ商事件と開高健、弘前事件と鎌田慧などがある。いずれもそれらの作家がそれらの事件について書いた著作、発言が世論形成に大きな力となったことは間違いなく、甲山事件でもそれを期待したのである。

甲山事件について、ちゃんとした作家に書いて欲しいと思った理由がもう一つある。甲山事件については、山田さんの再逮捕時に既に「捜査一課長」(清水一行著)という本が出ており、この本では、山田さんにあたる園の保母さんが真犯人のように書かれていた。再逮捕の直前に出たこの本は、再逮捕を正当化し、山田さんの無実主張を打ち消す役割を果たした。この本と対抗するためにも、山田さんの無実を明らかにした本が欲しかったのである。それも一審判決の前に。
 松下さんは、講演を引き受けたときから、甲山事件を執筆することを決意したようで、この集会後、執筆に向けての甲山事件についての取材が始まった。私や山田さんはそれに全面的に協力した。
 

私は、松下さんに甲山事件の資料を提供したり、私の知る限りのこの事件についての話をしたが、松下さんの関心は事件そのものだけではなく、私自身にも向いていた。
 「片見さんは何でこの事件の支援をするようになったの?」
 「この事件を冤罪だと思う理由は?」等々の松下さんの質問に答える形で、私自身の甲山事件との関わりを話した。

 

京大の学生時代は、学生運動をやっており、京大闘争の頂点とも言うべき時計台闘争 で逮捕され、自分自身被告人として長く裁判をやってきたこと。
 そのような中で、ある日、京大の正門前で甲山事件の第一回公判への結集を呼びかける立て看板を見て、神戸地裁へ行ったこと。
 運良く第一回公判を傍聴でき、京大新聞に「傍聴記」を書いたのをきっかけに、救援会の事務所にも出入りするようになったこと。
 現地調査をしたり、救援会の資料を見るだけではなく、弁護団事務所にある事件記録を読み、弁護団会議にも出席して、発言するようになったこと。(この時点では弁護士でないのは勿論、弁護士になろうとも思っていなかった。)
 このような活動を通して、山田さん夫妻とも親交を深め、自分の裁判の判決の日には山田さん夫妻も来てくれたこと。
 判決は、幸い執行猶予付きで、実刑を免れたことから甲山事件の支援を続けることができたこと。
などである。

私のそのような話を聞いた松下さんは、甲山事件の本の構想として、当初私の眼から見た甲山事件というか、私に狂言回しの役割をさせて甲山事件を描くということを考え、私に伝えた。そんなつもりで自分のことを話していたわけではない私は、松下さんのこの構想を聞いて、とまどい、少し考えてから私の意見を述べた。
 「甲山事件の支援運動は市民運動で、色々な考えの人を幅広く集めなければなりません。このような運動の中心に学生運動をやっていた新左翼の活動家がいるというのは、イメ―ジとして、あまり良くないと思います。松下さんのことですから、名前は伏せる(仮名にする)にしても、面白いと思ったことは全部書くでしょうし、それはやっぱりまずいんではないかと思います。」
 この私の意見を聞いた松下さんは、「わかりました。あなたの考えはわかりましたが、とりあえず私に任せて下さい。」と言って、どうなるかわからないまま取材が始まった。私の家に泊りがけでくるだけでなく、中津の松下さんの家にまで呼ばれ(もちろん泊りがけ)、取材が進んだ。
 松下さんの取材方法は、話を聞きながら、ノートにメモをとるというやりかたで、よく見ていると、メモを一生懸命とっているときと、全くとっていないときがある。人の話をなんでもかんでもメモをとるということではなく、自分の関心なり構想に合うものだけをメモしていたのであろう。
 そのようにして取材がすすんでいたある日、松下さんから連絡があり、「片見さんを通して甲山事件を描くというのは止めにしました。」と告げられた。元々そのような描き方には反対だったことから、松下さんにその理由も聞かなかったが、おそらく書き始めて気付いたか、書く前に気付いたかわからないが、当初の構想どおりにすすめることに無理があるということが分かったのであろう。松下さんのこの方針転換に私はホッとする一方、当初の構想どおり本が出来たら、どんなものになっていたのであろうかと少し残念な気持ちもあったことは事実である。
 松下さんの取材は多方面に及んだ。山田さん自身からの取材が中心になったのは言うまでもないが、それ以外に甲山学園の関係者、荒木園長、多田指導員(この2人は国賠での証言が偽証だとして山田さんと共同被告人になっていた。)、初期の救援会の中心になっていた西指導員などから取材がなされた。(但し、多田さんは当時救援会との関係が悪くなっていたこともあり、松下さんの取材申し込みは拒否されたようである。)松下さんの取材は検察側証人として出廷し、山田さん犯人説をとっていた高尾さんにも及んだ。高尾さんにも会って話しを聞きたいと松下さんから相談された時、私自身は反対も賛成もしなかったが、会ってどうなるか不安はあった。高尾さんに対する取材場面の実際は「記憶の闇」の該当部分のとおりであるが、その場には、高尾さん以外に関学の元全共闘の夫、神戸大の元教官Mさん(この人は松下昇といって、私たちの間ではかなり有名な人である。)が来ていて、松下さんにとっては、この時の体験は、この事件の「奥深い暗がり」を見たような気がしたそうである。

 

3「記憶の闇」の完成

松下さんは、1984年の3月の6周年集会後、甲山事件の取材を始め、その年中には、執筆を終え、作品は河出書房新社の「文藝」(1985年2月号)に一挙掲載された。タイトルの「記憶の闇」は、最初から決まっていたわけではないが、松下さんは取材・執筆の過程で、この事件の本質を言いえた言葉として「記憶の闇」というタイトルを思いついたようである。松下さんは、この本の中で、次のように書いている。
 
「人の記憶について考え込まざるをえない。私が眼を通す供述調書も尋問調書も、総てが記憶の確認であり再現である。事実は一つであるのに、一人一人の記憶が食い違い、誰の記憶が正確であるのか、もはや判別できないほどに錯綜してしまっているのが本件 である。園児証言のことのみをいっているのではない。本件関係者全員がそうなのだ。人の記憶の曖昧さ不確かさに嘆息させられる。そういう不確かなものに拠って真相を極めようとしているのが法廷であり、ときにはむなしい茶番劇に見えたりもする。「分かりません」「忘れました」「そうかも知れません」といった言葉の向こうに拡がる記憶の闇の 不気味さに圧倒される。」
 これが、松下さんが甲山事件の本のタイトルを「記憶の闇」とした理由である。このタイトルを最初に聞いたとき、検察側の証人も弁護側の証人も全て相対化するようで、必ずしも私は賛成ではなかったが、今ではこの事件の本質を端的に表現するタイトルとして適切なものだと思っている。

 
「記憶の闇」が完成し、発表されたことで、救援会では松下さんの慰労会を計画した。ところが、その会も松下さんの体調のハプニングで本人抜きで行われることになってしまった。
 松下さんは、この時のことを「草の根通信」(後に、エッセイ集「右眼にホロリ」に所収)に次のように書いている。(タイトルは「びっくりぼしのおとうさん」)

 
「1985年の松下センセも、またまた多難なようである。早くも病臥始めの有様である。某夜、電話機に手を延ばした一瞬、左腰部にピリッと激痛が走り、しまったっ、ギックリ腰だと思ったときはもういけない。身体がまっすぐ立たなくなっていた。翌朝目覚めると、もはや寝床からも立てない惨状に陥っている。豆腐屋の頃から二、三度ギックリ腰をやっているし、もともと左足には積年の神経痛があって疲労は一番先に左腰部にあらわれるのだ。
 さあ、困った。二日後には大阪で、松下センセを囲んで「記憶の闇」の完成を慰労するという内輪の会が予定されている。更にそれに合わせて、松下センセは次作のための取材で、名古屋や高松などの相手と面談の約束をとりつけているのだ。
 粉雪の降る中を弟の車で鍼灸院に運んでもらって、「なんとか明日までに歩けるようにしてもらえませんか」と願ってみたのだが、一回の治療くらいで効果の出るはずもない。その日の夕刻にはあちこちに電話して窮状を告げ、総てキャンセルしてしまった。
 甲山救援会による慰労会は、とにかく作者抜きでやってもらうしかない。
「エーッ、また病気ですかァ」
   
電話の向こうで、救援会の片見さんが唖然とした声をあげた。
「ほんとに松下センセは眼の前に現れるまでは、安心できない人だからなあ」と嘆息していう。
「すみません。私もこの内輪の会はとても愉しみにしていたのに・・・」 平謝りに謝って電話を切る。・・・・・・・・
 三日目の夜、電話に出た細君が「山田悦子さんの電話よ。あんた抜きの慰労会をやってるそうよ。電話に出てみる?」と、布団の中の松下センセに告げに来る。一切の電話にも出ずに寝ていたのだが、さすがに皆の声を聞きたくて電話の所まで這って行く。

センセ抜きで、シラケた慰労会をやってますわよ。ほんとに、ギックリ腰をやるなんてなんてドジな人やろって、みんなで悪口いってますよ。センセって、どうしてそんなふうなんですかァ。授賞式に行けばホテルの浴槽で転んで肋骨にひびを入れるし、せっかくの慰労会というとギックリ腰とか・・・」
「ほんとに、どうしてなんですかねえ。何かいいことがあると、必ずちょっとつまずくんですよねえ。ツキのない星の下に生まれついてるんでしょうねえ。」
「ひょっとしたら、松下センセは毎月ずいひつのネタにするために病気になってるんじゃないかと、みんなでいってますわよ」
「まさかねえ・・・」
「せっかく、センセに書かれた女が三人揃ってますのに」
 本当にこの慰労会はそういう稀なつどいである。「ルイズ」の伊藤ルイさん、「憶ひ続けむ」の古川佳子さん、「記憶の闇」の山田悦子さんと、三人が揃って作者を囲むはずであったのに、その作者だけが抜け落ちてしまった。
「せいぜい、三人で私の欠席裁判をやって下さい」
「ええ、やりますとも。三人とも、ギュウギュウ取材でしぼり尽されたうらみは深いですものね」あとで送られて来たその夜の寄せ書きの中で、彼女の字が一番乱れていた。  

 こらァ!センセ、なんでこなかったんだァ!(理由は解っているのですけれど)残念でした。

 でもみんなそれぞれの、この作品に寄せる思いを言い合って、いい集いでした。センセが来れ

 ば、もっと良かったのに!字が乱れてごめんなさい。ちょっと、私、ヨッチャッテン! 

彼女がその夜、いい仲間に囲まれて酔った気持が松下センセにはよくわかる。「記憶の闇」を読んだあと、彼女が書いてきた手紙の中にはこうあった<「文藝」を読み、何度も泣き、読み終えても、家事の合間合間に手に取り返し、又しても泣いています。送られてきたその夜、夫遅くまで読みふけっていたようです。>。             (1985年2月)
 

このエッセイの中で、私は実名で出てくる。前のエッセイでは「Kさん」だったのが、今度は実名になっているのである。それだけ、二人の関係が深くなったということであろうか。
 それから、「記憶の闇」が「文藝」に載ったのは、松下さんと河出書房新社とのつながりからであるが、私と「文藝」も多少の縁がある。私が、中学か高校の時に、「文藝」に高橋和己の「悲の器」が載ったのを契機に当時、「文藝」を愛読していたのである。ヘンリー・ミラーの小説なども載っていて、当時の「文藝」は刺激的であった。そんな話を、「記憶の闇」で知り合った「文藝」の編集の長田洋一さんにすると、長田さんは喜び、「是非一読者としての感想を編集部宛に送って下さい。」と頼まれ、書いて送ったのが次の文章である。


 「記憶の闇」通読しました。そして、甲山事件の全体像にふれる思いがしました。淡々とした筆運びの中にも、事件の中に真実を見極めようとする眼と、事件の中で様々に蠢く人間を見ようとする松下氏の眼が光り輝いています。各所に折りこまれた取材の時のエピソ―ドが効果的で、登場人物の生きた人間像が読む者に伝わってきます。(この文は「文藝」1985年3月号の「読者から」の欄に掲載された。長田さんは、その後も、甲山の集会や裁判に顔を出してくれた。)

 「記憶の闇」は、「文藝」に掲載後、1985年4月に河出書房新社から単行本として出版された。単行本の帯には、次のように書かれていた。「ノンフィクション甲山事件 1974年3月、西宮市郊外の障害児施設で二人の園児が殺害され、22歳の保母が逮捕された。不起訴、そして4年後の起訴から6年66回の公判―いま彼女は33歳。証拠のないまま、数十分の記憶の闇に囚われた一人の女性の不条理な十年の歳月を問う。」

 

4 判決

「記憶の闇」は判決に間に合った。1985年10月17日の判決を迎えた松下さんの心境を再びエッセイで見てみる。(「草の根通信」掲載、のちにエッセイ集「右眼にホロリ」に所収、タイトルは「阪神優勝のフィーバーの陰で」)


 甲山裁判の判決公判が近づくにつれて、松下センセの身辺もにわかに慌しくなった。大阪のテレビ各局が、御苦労にも九州くんだりまでインタビューに来るのだ。わずか三分間の談話を取るために、アナウンサー、カメラマン、助手の三人連れが大阪空港から大分空港へ飛び、そこから一時間余をタクシーでやって来る費用を胸算用して貧乏性の松下センセは放送局の浪費をいたく慨嘆したものである。
 甲山事件に関して発表された作品では、清水一行氏の「捜査一課長」がフィクション仕立てとはいえ保母犯人説で、松下センセの「記憶の闇」が山田悦子無罪説をとり、まっこうから対立している。判決を前にして流す番組で、この二人の作者のいいぶんを対照させて放送しようというのが、いかにもテレビ局らしい意図である。
 こうなると、松下センセも受けて立たざるをえない。相手が年収一億円を豪語する(実際、御本人がそういっている)売れっ子の推理作家とあっては、昨年度年収百五十万円の売れぬ記録作家松下センセも、よけいに胸を張って突っぱらざるをえないではないか。

「私は「記憶の闇」に“事実”だけを書きました。この作品から導かれる結論としては、無罪判決以外は考えられませんね」と、どの局にもきっぱりと答えた。一方、清水一行氏の方も「自分の推理に間違いはない。保母が犯人だといまも信じている」と答えたらしい。
 甲山裁判の無罪か有罪かの判決は、期せずして同時に二人の作家の事実を視る眼に対する評価をも公然とくだすという、実に厳しいなりゆきとなったのである。
 とはいえ、松下センセの心中に不安はほとんどなかった。全然なかったといいたいのだが、そこまでいえば嘘になる。九十八%は無罪判決を確信していても、やはり裁判も人のすること、二%くらいの不安は残ってしまう。まあしかし、二%程度の不安といえばこれはもうないようなものだろう。おそらく清水一行氏の方の不安ははるかに大きかったのではないか。・・・・(中略)・・・

 そして判決当日を迎える。松下さんはテレビ局の現場実況中継にゲスト出演した。
 
 阪神優勝の大フィーバーで明けた十月十七日の神戸地方は小雨がぱらついていたが、放送局のスタッフと共に地裁入りした午前八時半頃にはどうやらそれもやんでいた。風が強く特設放送局のテントをぱたぱたと鳴らしている。松下センセの薄い前髪は、もはや幾度ととのえてみてもどうなるものでもない。救援会のメンバーは「無実」のゼッケンを胸につけて、すでに傍聴券確保のために並んでいる。松下センセは「報道」のバッジをつけさせられて、なんとなく居心地の悪い立場にある。
 なによりも気がかりな特設放送席から法廷までの所要時間を、ひそかに計ってみる。駆けずに足早に歩いてどうなのか確かめると、それでも十分に間に合うと分ってほっとする。各社の放送小屋が同じ広さで並んでそれぞれごったがえし、地面にはコードがもつれ合って足元が危い。いったいこんな有様で九時三十五分に放送開始できるのかとはらはらさせられたが、やはり慣れたものでその時刻が来るとモニターテレビには特別番組甲山裁判判決のタイトルが映り始めた。
 狭い小屋なので三席しかなく、松下センセは途中でY記者と入れ換って坐ることになっていて、それまでは小屋裏で待機である。その間、はかない努力で手に唾をつけては何度も何度も髪をなでつけて地肌を隠そうとしているのだから、思いきりが悪い。
 「入ってください」と促されて、松下センセは着席する。山田悦子さんを起訴した当時の別所汪太郎元検事(現・弁護士)の自宅からのインタビユー中継(有罪判決を確信していると述べた)に続いて、松下センセとキャスターの二分五十秒の問答はあっという間に終った。そういう短い時間の中でも、いうべきことをきちんと押さえて洩らさず、落着き払ってそこはかとなく作家の風格をただよわせるあたりは、さすがに場数を踏んでいる松下センセならではのこと。
 さて、先行するY記者を追って、足早にしかし駆けずに法廷へと急ぐ。法廷に入ったのは十時一分前で、傍聴席はもうほとんど埋まっている。かなり息があがって、咽喉が鳴っている。
 裁判長の入廷は定刻を少し過ぎて十時二分。松下センセは身体を乗り出して、右の耳の方を前方へ突き出すように構える。身近な者達は知っていることだが、松下センセの左耳はストマイの副作用で難聴なのだ。
 「被告人は前へ」と促されて、山田悦子さんが立上がり前へ出る。傍聴席からは後姿を見るだけで、彼女の表情をうかがうすべはない。いまの緊張を思いやるのみである。
 角谷裁判長は、ほとんど間を置かずにスッと発言した。「被告人は無罪」
 とたんに傍聴席に拍手が渦巻いた。松下センセも思わず拍手していた。法廷がざわめき、報道陣が「主文」を伝えるために飛び出して行った。松下センセもここで飛び出すべきかと迷ったが、すぐに裁判長が「判決理由の骨子を述べます」というので、席にとどまった。同じ無罪判決でも、もし灰色無罪(疑わしいのだが証拠不十分で無罪)なら悦子さんは救われない。裁判長は、園児証言、自白調書、相互付着繊維という、検察主張の三本柱をことごとく厳しく否定しさった。それを聞き終えたところで法廷を出た。ルイさんなどはもうこのときには頬をグショグショに濡らしていたらしいが、作家魂を持つ松下センセはこんなときにも冷静で、インタビューにどう答えるかを考えている。それでも、外に待ち構えていたカメラにつかまると、「完全無罪です」とさすがに声をはずませた。「もう、こうなった以上、検察側には控訴できる条件はまったくなくなりましたね。メンツだけで控訴するような暴挙をしてはなりません」と強調した。門前に待機する支援者達の方で、歓声があがり紙吹雪が舞っていた。
 午後二時半から始まった祝勝会の途中で、早くも無罪判決を大々的に報じる各紙の夕刊が持ち込まれ、会場に廻覧された。清水一行氏の談話も松下センセのそれも載っている。一行氏の談話を読んで、松下センセはあわれな思いすら抱いてしまった。
 清水一行氏の話「判決がどうであろうと、私は自分の推理に自信を持って居り、いまでもあの保母が犯人と思っている。判決で二人の園児が過失で(汚水浄化槽へ)落ちたということはいってないわけで、甲山学園という密室の中で殺人事件があったのを否定したものではない。私たち市民生活をおくっているものは、真犯人をはっきりしてほしい。判決を聞いて、裁判所は逃げたという思いでいっぱいだ」(サンケイ)
 これが、冷静な推理を自負する作家の言葉であろうか。山田が犯人でないというなら別の真犯人を差出せ、そうでなければ納得しないぞと居直っているのだ。その注文は検察にこそ突きつけるべきことで、裁判所や救援会やまして山田さん本人にぶつける言葉ではあるまい。この判決で裁判所は何も逃げているどころか、まっこうから検察のいいぶんを否定し尽くしているのだ。そんな見分けもつかない程に、一行氏はこの判決にうろたえ取乱しているのだろう。
 一方、松下センセのコメントのなんと堂々としていることか。
 「当然の判決だ。検察の誘導による自白と園児証言のでっち上げ、繊維鑑定の不確かさなどから無罪という立場で見つめてきたが、えん罪という結果が出た以上、厳しく責められるべきは検察庁をはじめとする国家権力である。ここまで山田さんを苦しめてきてその責任をだれがとるのかを考えると、やりきれない思いがする。こうなったからには検察側は絶対に控訴すべきではない」(読売新聞)
 売れっ子作家と売れぬ作家の対決は、圧倒的に後者の勝である。事実を視る眼の確かさの差であろう。
 かくなる上は、「記憶の闇」が大いに売れてベストセラーになるべきであるのに、ドジな河出書房にそんな商売気はないらしく、このかんじんなときに関西の書店にすら本は出廻っていないのだからがっかりさせられる。いまや関西の話題は阪神タイガースと甲山裁判なのだから、書店に「記憶の闇」を山積みして「無罪判決を予告した迫真の記録小説!」くらいの吊り広告はすべきなのだ。
 祝勝会の席で挨拶を求められた松下センセは、判決そのもののことには触れずに、つい、そんな愚痴を発言して「私もこの際、少しはもうけたいのです」と口走ったものである。
 それでも全員の笑いと拍手で包まれたのは、誰もが勝利の美酒に酔ってとても寛容な気持ちになっていたからであったのだろう。                   (1985年11月)

5 「記憶の闇」の後日談として、二つだけをあげておこう。

1つは、この本が新田次郎賞(公益社団法人新田次郎記念会が主催する文学賞で、優れたノンフィクション文学などを対象に年一回選ばれる。過去の受賞に鎌田慧「反骨―鈴木東民の生涯」などがある。)の候補にあがったことである。残念ながら最終的には受賞にはいたらなかったが。
 2つは、この本の中で、松下さんの取材を受け、書かれたNさんから抗議を受けたことである。松下さんは、決してNさんのことをこの本の中で悪く書いているわけではないのであるが、Nさんからすれば自分の描き方などの点で気にいらなかったのであろう。松下さんは、このNさんから抗議を受けたこともあって、登場人物の名前を「文藝」ではほとんど実名で通したのを、単行本ではほとんど仮名にした。

 甲山裁判は、一審無罪後、検察控訴で「原判決破棄、差戻し」、差戻審で再び無罪、検察の再控訴に対して、2回目の控訴審は控訴棄却で、無罪判決が確定した。これが1999年のことで、事件発生より、25年経っていた。
 松下さんは、一審無罪判決後も、この裁判の支援を続けて下さり、無罪確定の5年後亡くなった。
 私は、松下さんの作品は、ほとんど読んでおり、今でも私の事務所にあり、ときどき手に取ったりしているが、私の好きな作品は、「豆腐屋の四季」「砦に拠る」「潮風の町」「ルイズー父に貰いし名は」「九さん伝―あるアナキストの生涯」などである。もちろん「草の根通信」に載ったエッセイも好きで、単行本になったものからも、今回大分引用させて貰った。
 「記憶の闇」を通して、私は松下さんを深く知ることになり、交流を深めた。このことは私にとって、貴重な財産であり、松下さんは私にとって生涯「忘れえ
ぬ人」である。 
                                    2017年7月7日
              

 この写真は、文中にもある甲山裁判の一審無罪判決の日(1985・10・17)に判決後、 神戸地裁正門前の集会で喋る松下さんである

(当時48歳)。

 松下さんの後ろにいるのがこの集会の司会をしていた私である。

(撮影者は、松下さんの同志ともいうべき

   梶原得三郎さん)       

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